第三章〈水たまらねば月もやどらず〉7-2 無事に鎮火…?

「呪具が! 呪具がぁ!」


 我に返れば、目の前でチュニック姿の紫さんが、濡れた錦絵をふりまわしていた。


「なんてことするの! 借り物なのに!」


 ぷるぷる震えながら、深月を睨む。頬を紅潮させて、ほとんど涙目だ。

 深月も頬を赤らめたが、こちらは内容が違った。小鼻を膨らませている様子も可愛い、と思ってしまったのである。


「聞いている?」


 紫さんが詰め寄った。

 深月は一歩後ずさる。


 靴の踵になにかが当たって、からん、と乾いた音を立てた。

 足元を見下ろすと、〈防火用〉と書かれたプラスチックの赤いバケツが転がっていて、地面に水が散らばっている。

 濡れた地面の真ん中に、三つ編みの常連さんが立っていた。怯えた顔で、周りを見まわしている。


「なんで私、こんなとこに……?」


 腕がぐっしょり濡れているのにぎょっとして、急いで水をふり落とす。

 あれって、俺の仕業?

 やっちまったか、と深月が眉根を寄せかけたところへ、


「くぉらぁ!」

 いきなり、後ろから怒号が降ってきた。

「防火用水で遊んだらいかん!」


 雪駄を鳴らしながら近付いてきたのは、墨染の衣の老人。さっき、恋文売りを面白そうに眺めていた、恰幅のいいあの老僧だ。ハの字眉毛にしわの寄った鼻、青黒い口元という独特な顔立ちで、まるで土佐犬が吠えているよう。


「す、すみません」

 遊んでいたわけじゃなくて、と言い訳する深月に、

「ほれ、さっさとそこで水を汲んでこい」

 バウワウと指図する。それから一転低い声で、

「私はこの寺の者じゃあない。だがあっちに、訝しげな顔つきの、この寺の僧がいる。あの者は火を視たかもしれん。大袈裟に謝って、いまのうちにぱぱっと水を汲んできなさい」


 背筋がひやりとした。他にも紙一重の炎が視えた人がいるのか。

 恐る恐る様子を窺えば、ほとんどの人間は、品物の売買か、物色に夢中。だが中に二人ほど、眉をひそめてこちらを窺っている者がいる。老僧の連れの精悍な顔立ちの若者も、後ろできりりと眉毛を上げて怖い顔。


「修行した人たちは、やはり侮れないな」

 紫さんは笑顔でうそぶいたが、深月は慌てて周りに頭を下げた。

「すみません、ごめんなさい。ふざけて水を蹴っちゃって」

 へこへこしながらバケツを拾い上げ、八幡宮横の水場にぴゅっと飛んでいく。


 バケツに水を溜めながらふと視線を上げると、三つ編みの女子大生がこっちを見ていた。


 目が合った。


 三つ編みさんがぎくっと身を強張らせ、Tシャツのミッキーをつかむ。さっと目を逸らして、彼女は逃げるようにその場から立ち去った。


 なんとなく、常連客が一人減った気がする。


「お七の恋火は無事消火――というところか」

 紫さんが近付いてきて、ぼそっと宣った。

「はは」

 一緒に来た老僧が破顔しつつ見下ろす。しかし、彼はちんまりした双眸をつと瞠ると、いった。


「おや、あんたさん、影だな――」

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