第三章〈水たまらねば月もやどらす〉6-2 水たまらねば?

「そんなことより、旭」


 浮沈する青年の気持ちなんて微塵も忖度するふうもなく、紫さんは淡々と続けた。



「八百屋お七のコスプレイベントを装って、恋に身を焦がす大勢の娘を、この市に集めた妙な輩がいる。目的は判らないが、お七といえば、火事だ。なにか、着火剤的なものを商ったりは――」


「待て!」

 旭が血相を変えた。

「今日の目玉は、五七五の短冊で」

 一枚売ったで、と小脇に抱えていた細い桐箱の蓋を開けてみせる。

 中には、筆で書かれた俳句の短冊らしきものが入っていた。

「燃えるような句がええ、ゆわれてな。三枚ほど見せて」

 選ばれたのは、後藤夜半の句。


 まづ聞ゆ 遠きところの 火事の鐘


「売ったのは、矢羽根の着物の娘?」 

「いや、Tシャツの女や。てか、今日、着物の客は一人も来てへんし」

「お七擬きは誰もたどり着いていないのに、洋服の娘が来た……?」


 不味いかも、と紫さんがきゅっと眉根を寄せる。

「短冊を買っていった娘は、お七よりも強く、コスプレで擬態する必要のないくらい、焦げる想いを抱えた娘の可能性がある」


 娘の風体は? 紫さんは早口に聞いた。

「ええと、どないやったかな」

「早く思いだして!」

「……そうや、Tシャツの柄がミッキーマウスやった」

「……もしかして、お下げ髪だった?」


 二人がぱっとこちらをふり向く。

 そろりと深月は続けた。


「さっき見かけた。お七の群れの中にぽつんと立ってた。……シャヴァンヌの常連さんだった」

「シャヴァンヌ?」

「俺のバイト先の喫茶店」


 旭がじっと深月を見つめた。

「……悪いんは俺やのうて、こいつとちゃう?」

 ちょいちょいと、深月を指さす。


 なんの言い掛かりだと深月は返そうとしたが、紫さんまでが唸った。

「うーん、水溜まらねば、でなんとかなるか?」 

「〈月も宿らず〉やな?」


 打てば響くような旭の返しに、紫さんが半眼になる。


「矢鱈と『月百姿』の主題に詳しいようだけれど、調べたの?」

「せや。お前がおもろい呪具を手に入れたって聞いてな。色々調べたんや」

「耳が早すぎない?」

「おまえに関することなんや。早すぎるっちゅうことはない」

「キモチワルイ」

「ははは。そういうなや」


 紫さんが口にした〈水たまらねば〉とは、


 千代能が いただく桶の 底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず

 

 という歌を、そのままタイトルにした『月百姿』の絵である。


 鎌倉時代に実在した、千代能という女性。

 ある日彼女が井戸の水を汲もうとしたら、桶の底が抜け、水に映っていた月も消えてしまった。それがきっかけで千代能は悟りに至ったが、そのとき彼女が詠んだといわれているのがこの歌だ。


『月百姿』には、井戸端で「あら底が抜けちゃった」と壊れた桶と流れた水を眺める、千代能の姿が描かれているのだが、なんで〈桶の底ぬけ〉で悟りに至るのか。深月には、まったくもって理解できない。


「とりあえず娘を捜そう。説明はその後だ」


 紫さんが踵を返し、深月は後に続いた。

 

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