見習い天使の真実
「ずっと会いたかった」
縋り付いて泣く桜子を俺の全てで抱え込めば、胸を濡らす彼女の涙が俺の心の澱みを押し流して行くのを感じた。
繰り返される懺悔の言葉。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
「もういいんだよ。桜子。もう十分だから」
なるべく優しい声でそう言って、彼女を抱く腕に力を籠める。
「会いに来てくれて嬉しいよ。俺も桜子に会いたかったんだ。ずっと」
ようやく少し落ち着いた桜子が、おずおずと体を離しながら見上げてきた。
細い指先で俺の頬をなぞり、嬉しそうに微笑んだ。
「ずっと、会いたかったの。会ってごめんなさいって言いたかった。でも、会いにこれなくて。あなたをいっぱい傷つけてしまったから謝りたかったけれど、でも会ったらもっとあなたを苦しめるってこともわかっていて……ごめんなさい」
桜子の唇に人差し指を当てる。
「もうごめんなさいは終わりにしよう。それよりも……わからないことばかりなんだよ。わからないことは辛いから……今日はちゃんと話して欲しいんだ」
濡れた睫毛を閉じてから、桜子がコクリと頷く。そうして、静かにあの日のことを語り始めた。
「もう二尋さんも知っていると思うけれど、私は
桜子の瞳が俺の目を捉える。
そこには、あの頃は一度も見せたことの無かった真っすぐな感情が溢れていた。
「私、夢を見てしまったの。二尋さんと一緒だったら、幸せになれるかもしれないって。もちろん出会った当初は警戒していたから、桜子って偽名を名乗ったんだけど。でも、その後は―――桜子になりたかったの」
そう言って、桜子は幸せそうな笑みを見せた。
「桜子になりたかった?」
「そうよ。冬子じゃなくて、桜子。私にとっては二尋さんと一緒にいる私が本当の私で、冬子は悲しい夢の中の出来事なんだって。そんな風に思いたかったの。だから、本当の名前は言いたくなかった。私は二尋さんの横で、ずっと桜子のままでいたかったから」
ふっと雰囲気が変わる。
「それに……私の居場所がバレて、また借金取りが追いかけてくるかもしれないと思ったら、やっぱり本当のことは言えなかったの。あなたを巻き添えにだけはしたくなかった」
出会った当初から変わらない、芯の強い桜子がそこにいた。
「行方をくらましても定期的にお金を振り込んでおけば大丈夫ってタカをくくっていたんだけど……その考えは甘かったみたい。結局父親は更なる借金を繰り返してもう首を括るしかないって泣きながら言われて。もう、私は逃げられないんだなって思ってしまったの。最低な親だけれど、そんな父にも優しい時があったから、私はやっぱり捨てられなかった。売上金を父親へ渡した時、私は二尋さんより父を選んでしまったんだなって。もうあなたの元へは戻れないって思った」
「そんな……なんでそんなに一人で何もかも抱え込んだまま逝ってしまったんだよ。一言相談してくれていたら」
「だからよ。あなたなら絶対そう言うと思っていた。だから言わなかったの。でも、私間違っていたって、強烈な後悔に襲われて……やっぱりあなたに会いたくて会いたくて……無意識に体が動いてしまって」
「……」
「車が来ていることに気づいていなくて」
「事故にあった……ってことか」
力なく頷いた桜子。またポロポロと涙が零れ落ちた。
「死んでしまったから、俺のところに帰れなかったんだね」
「私、あなたに謝らなくちゃって思って、慌てて飛び出してしまって。車にぶつかって死んじゃった。だから、心残りで成仏できなくて、ずっと……ずっとその場に佇んでいたの。そうしたら、天の声が聞こえてきて……」
「天の声?」
「二尋さんにそんなに会いたいのかって聞かれて。『はいっ』て答えたら、もう一度だけ会える道があるって。でもとても厳しい試練の道だと言われて。でも、私は自分が犯した罪を考えたら試練なんて当たり前だと思ったから、迷わず頷いたの。そこからは記憶が封印されていたみたいで……」
「いつ、このことに気づいたの?」
「昨日の中間発表の時。もう少しで天使の修行が終了するから願いを叶えてあげようと言われて、記憶が戻ったの」
そうか。だから道で待っていた彼女は寂しそうな顔をしていたんだ。
「天使の修行って、そんなにすぐ終了しちゃうのか? もっともっと一緒にいられないのかな?」
「二尋さん……ありがとう。こんな私とまだ一緒に居たいと思ってくれて」
「当たりまえだろう。俺は桜子とこれからも一緒に……」
桜子の白い人差し指が俺の唇の動きを封じる。
「一度死んだらもう戻れないの。これは特別な時間であって、永遠では無いのよ」
「そんな……」
頭では分かっていても、心がついて行かない。苦し紛れに尋ねる。
「天使の修行って一体どういうものなんだ?」
「天使の修行は……その後の
「
「そう。私たちの魂は何回も何回も生まれ変わって生きているの。魂は永遠だけれど、器の体は短いからね。短い間に果たせなかった心残りが溜まってしまうと、魂生が疲れ切って動けなくなってしまう。そうならないように、助けてあげる役目が天使ってことみたい。天使は魂生から外れて、生まれ変わることはしないの。だからもう、二尋さんとこの世のどこかで会うことは無いと思う。でも、それでも、私はこの一瞬のためにすべてをかけてもいいって思えたの。だって、どうしても伝えたい言葉があったから」
俺の両頬を挟みこんで桜子が大切そうに言葉を紡いだ。
「二尋さん、私、本当にあなたのことが大好きだったよ。ずっとずっと愛していたよ」
言い終えて、満足そうな笑みが広がった。それは本当に穢れのない美しい笑顔だった。
「でも、桜子でいたかったっていうのも、やっぱり違うのかもしれない」
「え?」
「私、本当は色音のようになりたかったんだと思う。純真無垢な私のまま、二尋さんと会いたかった。だから、色音として過ごした日々は楽しかった。物凄く幸せでキラキラしていて。なんの憂いも無く二尋さんの横に居て、美味しい物食べさせてもらって一緒に笑って……。最後に夢が叶って幸せ。私の宝物だよ」
桜子だとか色音だとか。そんなことは関係ないのかもしれない。
だって同じ魂なのだから。
例え形を変えたとしても俺は何度でも彼女に惚れるのだろう。
「俺の魂も救ってくれたんだな」
その言葉に、驚いたように目を見開いた桜子。納得がいったようにふわりと笑った。
「ああ、だから……修行が終わったんだわ」
「どういうこと?」
「見習い天使の修行の課題は、私が傷つけてしまった人の傷を癒すこと。それから、その人に新しい素敵な出会いを結ぶことなの」
「俺の傷を癒すこと……」
「二尋さんが色音を好きになってくれて嬉しかった。だって、新しい恋を始めようって思ってくれたことだから。もう一度恋して、幸せになろうって思ってくれたから。古い恋はもう終わりって思ってくれた証だから」
「そう……なのかな」
「うん。そうなんだよ」
「出会いの方は、色音との事じゃ無くて……奏斗君のことかな?」
「そう。奏斗君、いい子だったでしょ。私の目に狂いは無かったわ。これからの二尋さんの助けになるはず。それだけじゃないの。奏斗君にとっても素敵な出会いだったはず。だって、二尋さんいい人だから」
ふふふっと桜子が笑った。今度は心から安心したような笑み。
「奏斗君、きっとこれから幸せになれるよ。だって、私と違って、彼は真っ直ぐだから。真っ直ぐに、師匠に付いて行こうって思い始めているからね。私みたいに迷った挙句に自分からチャンスを断ち切ったりしないよ。大丈夫。彼ならね」
そう言うことだったのか―――
天使の役目って言うのは、生きづらい今世で、少しでも生きやすくなるために『出会いと言うチャンス』をくれることなんだな。
「私は天使がくれたチャンスを生かせなかったけれど」
「それは! 桜子が優し過ぎたからだよ。お父さんを大切に思っていたから」
「ありがとう。二尋さんならそう言ってくれると思っていた。でもね、やっぱり自分のことも大切にしなきゃいけないんだよね。
桜子がもう一度「自分のことも大切にしてあげなきゃだよね」と呟いた。そして何か決意を固めたようにふっきれた瞳を向けてきた。
「出会いがあっても簡単じゃないけれど。でも……だからこそ、天使の役目って大切なんだと思う。これからも私、二尋に素敵な出会いをあげるからね」
「桜子……」
「でも、今だけは……私だけの二尋でいて。最後までわがままでごめんね」
「いいや。初めてのわがままだよ。嬉しい」
「……二尋。愛してる」
「俺も。桜子を、いや桜子も色音も愛している」
離れていた年月が消えて無くなった―――
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