第八膳 『孤独を癒すラーメン』
それは全く突然のことだった。
天使の国から呼び出しがかかったと、いつもと変わらない調子で色音が言った。
「それって、修行が終わったってことなのかな?」
問い返す声が自分でも驚くくらい震えていた。
「違いますよ~。中間結果の発表です。もっと頑張りなさいっておこられちゃいそうです」
ペロッと舌を出しながらも、全然心配していない様子。
「そ、そうなんだ」
「だから、直ぐに帰って来ますからね。でも、今晩はお夕飯一緒に食べられないかもしれません。師匠のご飯がいいんだけどな~」
ぶつぶつ文句を言いながら、元気よく「いってきま~す」と出て行った。
ぱたりと閉まった扉。中間発表の言葉にほっとしたものの、しばらく呆然と色音の残像を見つめ続けた。
急に寂しさが押し寄せてくる。
にぎやかで明るくなっていた部屋、それが一瞬にして元通りの空虚な空間に戻ってしまった。
『大事なものは失ってはじめてわかる』
よく聞く話だが、まったくもってその通りだ。今回は中間発表だから直ぐに帰ってくると色音は言った。でも、本当にそうだろうか?
桜子のように、これっきり帰ってこないんじゃないだろうか?
白昼夢から覚めたように、冷たい現実を突きつけられる。
色音は見習い天使だ。いずれ天使の国へ帰るのだから、一生一緒にいられるはずがないんだ―――
だったら別れは傷が深くなる前がいいに決まっている。
「まだあきらめが付くタイミングだっただけマシなんだろうな」
「それに一人の気楽さには慣れてるしさ」
「やっばり他人と生活するのは向いてないのかなぁ」
気づくと誰にともなく話していた。
すっかり日も暮れ、電気をつけ忘れた部屋は薄暗い。
と、小さくお腹が鳴った。
そういえば昼ご飯も食べていなかった。
「こんな時でもお腹だけは空くんだよな」
そうだな、こんな時はラーメンがいいかな。
うん。久しぶりにラーメンを食べたいな。
「久しぶりにあの店にいってみようかな? それとも自分で作ろうかな?」
まぁ時間だけは持て余しているわけだし。
とりあえず財布をもって靴をひっかける。
扉を開けると空一杯にオレンジ色が揺らめいていた。
もうすぐ晩御飯の時間なのだ。
天使の国の食事ってどんな感じなんだろうか?
そもそも天使は食事が必要なのかな?
「……色音、お腹すかせてないといいな」
💐 💐 💐
西の光は徐々に赤みを失って夕闇が迫ってくる。周りの輪郭がおぼろになり始めると、己の存在まで危うく感じ始めてしまうから困ったものだ。
もくもくと、ただ黙々と、一人で歩く。いつもの色音との散歩道。
最近は二人でゆっくりと歩いていた。一日のこと、食べ物のこと、思いつくままに話をしては笑い。そんな何気ない時間が俺にとってどれほど大切な時間だったのか。
空洞の心を抱えたまま、ひたすら目当ての店へと歩みを進めた。
いつものスーパーよりツーブロックほど先の角を右折する。
一歩踏み出しただけで、急にうらぶれた雰囲気が流れ出す通りに、ポツリと暖簾が見える。そして、そこだけ人の列ができていた。
知る人ぞ知る名店は、大通りにある必要は無い。もう一度食べたいと思わせることができれば、人は自然と再び訪れるのだ。そして、自分だけが知っているという細やかな優越感も得ることができる。
その店のラーメンは塩ラーメン一種類しかない。
透き通った汁は黄金色に輝き、口に含めば鶏ガラと魚介の複雑なハーモニーを奏でる。やや細めの麺の上には叉焼と半熟醤油漬け卵、ねぎと海苔。シンプルだけれど、そのどれも手を抜いていない、料理人のこだわりが詰まったラーメンだった。
店主は無口で必要以上の口もきかない。普通なら、サービスが悪い、愛想が悪いと悪口を言われそうなものだが、ここのラーメンを一口食べれば、みんな納得してしまう。きっと彼は、ラーメンを通してしか会話ができないのだろうと。
まずはレンゲで汁を一掬い。まろやかな塩味が乾いた体に沁み込んでいく。
箸で持ち上げた麺の束にふうふうと息を吹きかけてから、一気にズズっと吸い上げる。大きく頬を上下させて噛みしめれば、とろりと絡みついた油分が、もちもちとした食感を引き立てた。
どこか懐かしさを感じる味は、食べた人の心まで潤してくれるのだ。
小さな店のカウンター席は、俺のような一人で食べている人も多いので、寂しさも怖くないと思えた。
たった一杯のラーメンに癒されて、俺はほっとして家路についた。
途中でビールが切れていたことを思い出す。コンビニの扉を押しあけた途端、聞き覚えのある声に出迎えられた。
「いらっしゃいま……あれ? 師匠!」
「あれ、奏斗君じゃないか」
客としてではなく、コンビニの制服を着た彼が、カウンタ―の向こうから頭を下げた。
「バイト決まったんすよ。夜間バイト。これなら母さんと交代で家にいられるから。むしろ良かったかなって」
吹っ切れたような顔でそう言った。
「そうか。良かったな」
「今日は色音は一緒じゃないんすか?」
「え、ああ。ちょっとな。色音は出かけているんだよ」
「へえー」
驚くでも無くそう言った後、急に真顔になって尋ねてきた。
「師匠、あの、この間はありがとうございました。それで……俺、料理また習いに行ってもいいっすか? この間作った料理、香里がめちゃくちゃ喜んでくれて。すげえ嬉しくて。だからまた色々教えて欲しいなと思って」
はにかんだ笑みを浮かべた奏斗を見て、俺の中に新たな熱が灯った。
自分の店を持ちたいと言う夢と同時に、誰かに知識を伝えたいと言う思い。
「おお。俺で良ければ、またおいで」
ぱあっと顔を輝かせた奏斗。いい笑顔だった。
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