第九膳 『再会のメニュー』
コンビニを後にして暗い夜道を急ぎ足で歩く。だが、扉の向こうには同じく墨色の部屋が待っていた。
わかっていたことだけれど、色音はまだ帰ってきていないようだ。
買ってきたビールを冷蔵庫に仕舞いながら、ふと使っていないクリームチーズが目に入った。これ、早めに使ってしまったほうがいいな。
自然とエプロンに手が伸びた。
思えば色音と出会ったおかげで、俺は変わることができた。
もう一度料理への情熱を取り戻せたし、傷心の心を温かい思い出で塗り替えてもらえた。そして奏斗との新たな出会いも。
みんな色音のお陰だ。
だから、俺も色音にちゃんと気持ちを伝えないといけないな。
手遅れになる前に―――
強い光を感じて目を開ける。今何時だろう?
次の瞬間、ガバリと起き上がった。まずい、遅刻する!
慌てて身支度を整えるといい加減な朝食をとって飛び出した。
家の中に、色音が帰ってきた痕跡は見つけられなかった。
まだ帰ってきてないのかな。それとも……
チクリと痛む胸に気づかぬふりをして、俺は会社へと向かった。
別れていたのはほんの三十六時間ほど。
それなのに、再会がこんなに嬉しいなんて。
駅から家までの通り道。あの夜の出会いの場所に色音が立って待っていてくれた。
暗い道に光が満ちたかのように、安心が体を軽くさせる。
それなのに、なぜだろう?
色音の顔には満面の笑みが煌めいているのに。なぜか捨てられた犬とか猫みたいに心細げな影を纏っている。
あの日と同じように―――
「色音。お帰り」
『ただいまです! 師匠!』そう言って飛びついてくるかと思いきや、色音は静かに笑っただけで俺の横に並んで歩き始めた。
「お腹空かせているんじゃない?」
その言葉と共に視線を交えた瞬間、ようやくいつもの色音の瞳になった。
「はい。ぺっこぺこです。師匠のご飯が食べたいです。でも……」
と、その手にエコバッグがあるのに気付く。中には何やら入っている様子。
「なにか買ってきたの?」
色音はうなずくと、バッグを開いて中身を見せてくれた。
中にはキャベツが一玉と、値引きシールの張られた豚肉のパック。
「なにか作ってほしいものがあるのかな?」
俺の言葉に小さく首を振る。
はて? どうも様子が分からない。
だが真剣な表情からして、大事な目的があるようだった。
そこで気づく。
「ひょっとして、今日は色音が俺に作ってくれるのかな?」
色音はぱぁっと顔を輝かせると、大きくうなずいた。
「それはうれしいな! そうと決まれば帰ろうか!」
二人で歩くこの道は、やっぱり楽しい。
そんなに遠い昔のことじゃないのに、いろんな思い出がよみがえる。
そして、ほら、今も新しい思い出が生み出されていく。
「キャベツと豚肉か、おいしい組み合わせだよね! 生姜焼きとか、トンカツとか、ホイコーローとか。あとは……」
二人で思いつく限りのメニューをあげながら、ああでもないこうでも無いと言い合いながら歩く。
ずっと続いて欲しい。俺にとって何よりも大事な時間。
家に着くと色音は自分のエプロンを巻き、一人でキッチンに入った。それから缶ビールとコップが机に置かれ、俺はキッチンから追い出されてしまった。
どうやら全部一人で作る気らしい。
どうもそれが彼女にとって大事な事らしい。
キッチンからはリズミカルではないが丁寧な包丁の音が聞こえてくる。
しばらくするとなんともいい匂いも漂ってきた。
不意に俺の目から涙が流れる。
どうして流れたのか自分でもよく分からない。
ただ、色音の料理を食べた後、今度こそはっきりと伝えなければいけないと思った。曖昧なままにしておける時間はとうに過ぎていたから。
出来上がった料理を意気揚々と運んできた色音。
わたしのお腹が久しぶりにぐぅと鳴った……
💐 💐 💐
皿の上にはふわふわと踊り舞う鰹節。その下から顔を覗かせているのは、ふんわり柔らかくて香ばしいお好み焼きだった。
「おお、お好み焼! 美味しそうだね」
「色音特製お好み焼でーす! 師匠食べてみてください」
まあるいお好み焼きにヘラで切り込みを入れる。二つの小皿に取り分けると、色音も嬉しそうに座り込んだ。
「「いただきます」」
久しぶりに二人で唱える言葉。思わずにっこりすると、色音もにっこりして期待に満ちた目を向けてきた。早く食べてと言っているようだ。
俺はふうふうと数回吹きかけてから口の中へ。「あっつ」と言いながらも噛みしめると、ふわトロの生地の中からイカのムニっとした食感と豚肉の旨味、キャベツのシャキッとした歯ごたえが踊り出てきた。
「美味しい」
「やった!」
満面の笑顔を湛えて、色音が自分の分も食べ始めた。
「師匠、これは色音の愛情いっぱいスパイス入りですからねー」
そう言って照れた様に顔を赤らめた。
「お、おう。ありがとう」
きっと俺の顔も赤くなっているに違いない。
色音が焼いてくれた一枚は、アッと言う間に二人で食べてしまった。
残りのタネは一緒に焼こうと言うことになって、俺もキッチンに入ることを許してもらう。二人で並んで立つのは、やっぱり楽しくて嬉しくて。
お好み焼きのタネを流し込んだフライパンを見つめながらあれやこれやと話も弾む。
弱火でじっくりと焼き上げる時間は慌てる必要も無い。
フツフツと生地が声をあげるまで待っていればいいのだから。
ふと、横でお皿を構えている色音のつぶらな瞳とおやつを待つ犬の瞳が重なって、思わず笑ってしまった。
「師匠、何がおかしいんですか?」
「ふははは……。別に、色音可愛いなと思ってさ」
その瞬間、色音が挙動不審になる。ワタワタとしながら皿で自分の顔を隠した。
「……う、嬉しいです」
ハッ!
言ってしまってから、俺も自分の言葉に驚く。
恥ずかしいけれど、でも、前言撤回もおかしいし。
いや、言ってもいいんだろうな。
今、色音も嬉しい言っていってくれたし。
今までは俺が色音に癒してもらってばかり。
だから俺も色音にちゃんと伝えなければ。感謝と本心を。
後少し、一緒にいられる間に。
俺は真正面から色音に向き直った。
「色音。今まで色々ありがとう。俺は色音のお陰でたくさん元気をもらえたし、今もこうやって幸せな気持ちでいっぱいだよ。だから、ちゃんと伝えたくて」
「師匠……」
皿を持つ手が下がっていく。
「色音。大好きだよ」
俺の言葉に、色音の瞳が大きく見開かれた。
「ありが……とう」
皿をキッチン台へと手放すと、両手で口元を覆った。隙間から「わたしも……」と小さく漏れる。涙がはらりと流れ落ちて、喜びと悲しみが溢れ出すのを見た時、俺はたまらなくなって色音を抱き寄せた。
柔らかな彼女の髪に顔を埋める。色音の匂いがした。
爽やかで清らかで、でも密やかに甘くて……
その時、唐突に桜子の記憶が呼び起こされた。
そうだ。彼女も同じ香りがした―――
一瞬、心が怯む。なぜ今、桜子を思い出すんだ? 俺は未だ桜子に未練があるのだろうか。
けれど、目の前の色音は紛れもなく肉感を伴った存在で、色音は色音なのだと主張していた。俺のシャツを掴む指先にぎゅうっと力が込められるのを感じて、愛おしいさが全身を駆け巡る。
大丈夫。俺はちゃんと色音を色音として愛している。
桜子の代わりなんかじゃない。
それなのに、心の中に沸き上がる疑問。
ずっと心の奥底にひっかかっていた言葉を自覚する。
それを知って俺はどうしようと言うのか―――
しばらくしてから顔を上げた色音の目には、もう涙は残っていなかった。
代わりに悪戯っぽい顔でフライパンを指差した。
「師匠、焦げちゃいますよ」
「お、おお」
慌てて火を止めて、皿に移す。ソースを塗って、マヨネーズをかけて、鰹節と青のりを散らす。二人で頷きあって、分け合える喜びを分かち合う。
最後の晩餐―――そんな言葉がふいに頭を過ぎった。
これが、最後なのかもしれない。予感のようなものが確信に変わった瞬間だった。
だったら……俺は作り置きしていたチーズケーキを取り出した。
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