見習い天使の涙

「ただいま」

 扉を開けて驚いた。部屋の中が真っ暗だ。

 色音はまだ帰ってきていないのだろうか? こんな時間に一体どこへ?


 とりあえず着替えてから探しに出ようか。そんなことを考えながら電気をつけると、ローテーブルに突っ伏している色音の姿が目に入った。


 ほっ。部屋の中にいたんだな。寝ているのかな?


 起こさないようにそうっと近づいたつもりだったが、色音がヒョイッと顔を上げた。

 と、その顔が―――涙に濡れていた。


「どうしたんだい? どこか痛いのかい?」

 慌てて背中をさすると、色音は黙って首を左右に振った。


「じゃあ、何か悲しいことがあったんだね」

 今度は深く頷く。

「邪魔だって。二度と声をかけてくるなって言われちゃいました」

「えっと、誰に?」

「タバコの煙の人」


「タバコの煙の人?」

 ぱっとこちらを見上げると真剣な顔で続けた。

「師匠も会ったことありましたね。コンビニの前で」

「コンビニの前?」

 記憶を辿ってみる。コンビニの前で、色音と一緒にいた時に会った煙草の人って……ああ、あの時の!

 色音がここに住むことになった日、買い物に行った時にコンビニに寄ったな。確かにその時、煙草を吸っている数人の男の子たちが屯していた。

 と言うことは、色音はあの中の誰かに声をかけたということか。


 きっと見習い天使の修行として、彼らを手助けしたい思いで声をかけたんだろうが、傍から見れば危険な行為だ。彼らからしたら、色音は単なるJKにしか見えないだろうからな。

 まあ、もう声をかけてくるなって言われただけで、ケガをしたわけでは無さそうだ。何事も無くて良かった。胸を撫でおろしつつ答えた。


「思い出した。あの時数人の男の子が入口のところで煙草を吸っていたね」

「はい。その中の一人の子に、今日公園で会ったんですよ。ベンチにぼーっと座っていたから、どうしたのかなって思って、『どうしたんですか?』って言ったら、『うるさい』って言われて」


 うーん、まあ、いきなり声かけられたら驚くだろうな。


「でも、眉間に皺が寄っていたから、何か困ってることがあるのかなって思って。『何か困っているんですか?』って聞いたら『うるさい』ってまた言われて」

「そっか」

「でも、私は見習い天使の修行中で、みなさんを幸せにするお勉強中なので、ここで引き下がるわけにはいかないと思って」

「思って?」

「横に座って彼を観察したんです」

「か、観察……」

「そうしたら、『なんだよ。俺に気があるのかよ』って言われて」

「『気になります』って言ったら、今度は笑い出して。『じゃあ、慰めてくれよ。仕事クビになってむしゃくしゃしているからさ』って言って腕を掴まれたんです。本当だったら、そこでいっぱいお話を聞いてあげないといけないのに……咄嗟に怖くなって、天使チョップをお見舞いしちゃったんです」

「天使チョップ!」

「はい、こうやって『エイッ』って」


 色音は手刀のように手を振り下ろす真似をした。


「そうしたら、『ざけんなよ! どいつもこいつも俺をコケにしやがって!』って怒鳴り始めて」

「そうだったんだ。それは怖かっただろう。色音、無事で良かったよ。修行も大切かも知れないけれど、色音の体はもっと大切だからね。手刀でやっつけたのは気にすること無いよ」


 本当に、色音が無事で良かったと安堵のため息が出る。


「師匠~。やっぱり師匠は優しいです。私、全然彼を慰めてあげられなくて、かえって怒らせちゃって、見習い天使失格だって思っていました」

 ポロポロと色音の目から涙が溢れてくる。


 思わず俺は彼女を抱き寄せた。頭をぽんぽんと優しく撫でながら、「大丈夫だよ」と繰り返す。えっぐえっぐと肩を震わせていたが、しばらくして落ち着いてきたようだ。 


 色音にこんな怖くて悲しい思いをさせるなんてと、無性に腹がたつ。


 それにしても、見習い天使の修行ってやつは、本当に鬼畜だと思った。

 そもそも、誰かが誰かを助けるなんて、簡単なことじゃ無いんだ。

 それは時間をかけて、信頼関係を築いた先に初めて可能となること。


 そりゃ、見知らぬ人の親切が身に沁みる時だってあるさ。

 でも、それはほんの一握りの奇跡に近い出会いであって、そうそう起こるものじゃない。ましてや、こんな若い女の子の身でそれをするのは、危険を伴う時だってあるんだから……

 

 思わず口を開きかけて、寸でのところで言葉を飲み込んだ。


 焦らなくていいよ。別に卒業できなかったらここにずっといればいいさ―――


 この言葉は、色音への言葉としてふさわしいのだろうか?

 頑張っている色音には酷な言葉かもしれない。

 

 そう、これは俺の願望だ。

 本当はずっと一緒にいたいと思っている、俺のエゴ。



「師匠、ありがとうございます!」

 しばらくしてもぞもぞと顔をあげると、その顔にはいつもの色音の笑顔が戻っていた。

 俺はそっと涙の痕をぬぐってやる。


「師匠の心臓の音。すっごく優しくて心地よくて。聞いていたら安心して元気になりました」

 にっこりとそんなことを言いだすから、俺の体温は一気に沸騰した。


 し、心臓の音って……


「そ、それは良かったよ。お腹すいただろう。夕食急いで作るから」

「はい。ほっとしたらお腹すいちゃいました~。一緒に作りましょう」

 

 赤くなった顔を隠したくて、キッチンに向かおうと思ったのに、これじゃ隠せないじゃないか。

 俺はバクバクの心臓を抱えたまま立ち上がった。今夜はピリ辛マーボー豆腐でこの顔を誤魔化そう。


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