見習い天使は名看護師
「くしゃん」
ゾクリ。朝から震えが背筋を走る。
まずいな。風邪ひいたみたいだ……
そう思いながらも、いつも通りの電車に乗って、いつも通りに会社へ向かう。
そう簡単に休めないのがサラリーマンの辛さよ。いや自営業だって休めないな。
鉛のような体を引きずりながら歩く。
今日は早めに帰って寝よう。
だんだんと思考が回らなくなりながらも、なんとか終業時間まで過ごして部屋へと急ぐ。
夕飯どうしようかな。何にも食べる気がしない。
でも、色音は楽しみに待っているんだろうな。
待ち人のいる嬉しさと思うように動かない体の間で、頭がくるくるしていたが、玄関を一歩入った途端、ぷつんと糸が切れた様に座り込んでしまった。
だめだ。もう、動けない。
「師匠、お帰りなさい」
すっ飛んできた色音。俺のいつもと違う様子に焦ったように額に手を触れてきた。
「師匠、顔が真っ赤です。とっても熱いです。どうしよう」
「すまない。色音。ちょっと風邪ひいたみたいだ。今日の夕飯は残っているご飯を適当に食べてもらえるかな。俺はもう寝る」
「どうしよう、師匠が燃えそうです。死んじゃう」
涙目でおろおろしている。
「いや、これくらいで死なないから」
「でも……」
ふらつきながら立ち上がった俺に肩を貸してくれて、ベッドまで連れて行ってくれた。
ドサリと横になると、ネクタイを外してくれた。
いつの間にそんなことを覚えて……気がきくじゃないか。
「ありがとう。悪いけれど水を一杯くれるかな」
コクリと頷いた色音。ミネラルウォーターのボトルと共に、冷凍庫から氷を取り出して手に持つ。たらたらと色音の体温で溶けだす氷。
「そっか、タオルにくるめばいいんだ」
色音は独りごちるともっとタオルに氷を挟みこんだ。そして水を飲んで再び横になった俺の額に乗せてくれた。
「ああ、気持ちいいよ。助か……」
その言葉は途中で遮られた。色音が俺の頬を両手で挟み込んだから。
氷で冷やされた手。きっと赤くなっているんだろうな。
「もっともっと冷やさないと」
泣きそうな色音に、大丈夫と言うように微笑む。
「ありがとう。でも、色音に移したら困るから」
「私は見習い天使ですよ。人間の風邪はひきません。だから心配しないでください」
そういうものなのかな。そういうものならいいな。
それ以上考えるのもだるくて、俺はそのまま目を瞑った。
ふわりと右手が包まれる。
「師匠。ゆっくり眠ってください。私が横にいますからね」
そうだ。色音が見つめていてくれたら、俺はぐっすり眠れるんだった。
深い深い海の底へと沈んでいくような感覚。
海水がじわじわと沁み込んできて、熱を奪っていくような。
そんな心地よい夢―——
ふわりと湯気の香りを感じて、俺はゆっくりと目を開けた。
今、何時だろう?
大分汗をかいたようで、体が軽くなっていた。熱、下がったみたいだな。
顔だけ台所の方へ向けると、エプロン姿の色音の姿が。
黒いカフェエプロン。なかなか様になっているじゃないか。
一体何を作っているんだろう?
ゲンキンなもので、元気になってくると食欲がわいてくるものだ。
お腹がキュウと鳴った。
「色音」
「あ、師匠。目が覚めましたか!」
振り返った色音が嬉しそうな笑顔になる。
「今おじやを作っているんです。もし食べられそうだったら食べてみてくださいね」
「おお、おじや。そんなの知っていたんだ」
「うーん。そうみたいです。なんとなくこれならお腹に優しいって思って。思いついたままに作ってみたけど、さっき味見したら美味しかったから」
にっこりとしながら近づいてくると、俺の額に手を当てた。
「熱、ほとんど下がりましたね。でもまだ油断しちゃダメですからね。食べたら寝てくださいね」
「今何時?」
「朝の六時です」
「そんなに寝てしまったんだ」
「今日はお仕事お休みですよ」
「ああ、そうするよ」
安心したように頷くと、台所へと戻っていく。
俺はもう一度目を閉じてから、そうだ着替えようとワイシャツのボタンに手をかけた……と思ったら、ボタンが無い。
うん? そうっと布団をはいで自分の体を眺めて見る。
いつも寝ている時のスウェット姿。
昨日の夜、着替えてから寝たっけ?
飛び交う疑問符をそのまま口に乗せる。
「俺着替えたっけ?」
「あ、師匠、物凄く汗かいていたので、体吹いて着替えさせましたよ」
なんでもないことのように色音が言った。
「え、重くなかった? 大変だっただろう」
「師匠、気持ち良さそうにコロコロ動いてくれたから、別に大変じゃありませんでしたよ~」
「おお、そうか。それは良かった」
いや、良かったのだろうか? 何か良くないような気もするが……
色音は気にしていないのに、俺だけ気にするのは、その、なんか、違うかな。
「あれ、師匠。また顔が赤くなっている。やっぱり起きると直ぐ熱が復活しちゃうんでしょうか。早く食べてまた寝てくださいね」
これは、熱じゃないから。ちょっと恥ずかしいだけだから。
でも、心の底から一人じゃ無くて良かったなと思う。
体調を崩した時、誰かが居てくれる、看病してくれるなんて、こんなに心強いことは無いな。
疲れも見せずに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる色音に、心からの感謝を伝えたくなった。
「ありがとう」
「お役にたてましたか!」
「役に立ったどころじゃないよ。早く治ったのは色音のお陰だよ」
色音はパアっと顔をほころばすと、俺の手におじやの入った器を渡してくれた。
「よく噛んでゆっくり食べてくださいね」
「色音は名看護師さんだな」
「看護師さん?」
「病気の人の看病をしてくれる人」
「えへへ。そんなんじゃないですよ。いつものお礼です」
だが、色音の作ってくれたおじやを一口食べた時、また既視感を覚えた。
この味―—―
卵と梅干しとネギと出汁。シンプルでどこにでもあると言えばそうなのだけれど。
あの時と同じ味。
俺が最初に桜子に出したおじやと同じ味だ。
でも、まるっきり同じじゃない。今はそう思える。
「どうですか? 美味しいですか?」
心配そうにのぞき込んできた色音の目を真っ直ぐに見つめ返して、俺はにっこりと笑った。
大丈夫だよ。もう、悲しい味でも、後悔の味でも無いから。
「美味しいよ。とっても。ありがとう。色音も一緒に食べようよ」
その言葉を待っていたように、色音が飛び跳ねながら自分の分も用意する。
「やっぱり、師匠と一緒に食べるのが一番美味しいです!」
「色音の作ってくれたおじやを色音と一緒に食べられて、俺は果報者だね」
「果報者?」
「最高に幸せってことだよ」
色音の笑顔が弾けた。
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