見習い天使と動物園
桜子と出会ったのも、こんな桜の季節だった。
その頃の俺は、まだ修行中の身で、早く一人前になって自分の店を持つのが夢だった。だから、夜遅くまで必死に学んでいて、いつも真夜中を大分過ぎての帰宅。
そして、暗闇に
栄養失調による貧血で動けなくなっていた彼女を家に連れて帰っておじやを作ってあげたのが最初の料理。出汁でふっくらとしたご飯に、卵と梅干しとネギを散らしただけのシンプルなおじや。
最初は警戒していたが、俺が横で美味しそうに食べる様子に我慢ができなくなったらしい。食べ始めたら夢中になってお替りまでした。
その顔がとても満ち足りていたから、俺の心も温かくなったのに……
彼女の口から出たのは、『お礼に抱いていいよ』だった。
俺は腹がたって追い出した。『そんなつもりで食べさせたわけじゃない。馬鹿にするな!』
そして悲しくなった。彼女は一体どんな生活をしてきたんだろう。
周りから搾取される人生を歩むしか無かったのだろうかと。
だがその日以降、桜子はお腹がすくと俺のアパートの玄関に座り込んでいることが増えた。少しは信頼されたのだろうか。
まるで野良猫のような奴で、そっけない態度でいれば近寄ってくる。
ちょっと気を許すと直ぐに逃げ出す。そんな関係がしばらく続いた後、ボストンバッグ一つで転がり込んできた。
俺は追い返す気にはならなかった。料理人を目指しているなら、誰でも欲しくなるだろう。自分の料理を食べて、嬉しそうな顔を見せてくれる人が。
そして、俺の料理を食べるようになってから、彼女は見違えるように美しくなった。パサパサだった髪の毛は艶が出て、くすんだ肌は透き通り。
俯きがちだった視線は、だんだんと前を向くようになり、幸せそうに食べてくれるようになった。
こんな笑顔で食べてもらえるなんて。料理人にとっては最高の栄誉だ。
俺はそんな彼女に恋をした―――
彼女はいわゆる夜の仕事をしていたが、稼ぎのほとんどを、飲んだくれの借金親父に送っている孝行娘だった。栄養失調で倒れていたのはそのせいだった。
もう十分じゃないか。ダメ親父とは縁を切って、自分の幸せを求めたっていいはずだ。
俺は彼女を自由にしてやりたかった。だからプロポーズしたんだ。
『結婚しないか。一緒に店をやろう』
俺の言葉に、桜子は嬉しそうに笑った。
『嬉しい。二尋のお店、がんばって手伝うね』
でも『結婚はもう少しだけ待って』と言葉少なに言った。
俺が店を構えてからは、桜子が夜の店をやめて手伝ってくれた。
すっかり美しく明るくなった彼女は、店の看板娘だった。俺の料理と彼女の接客。
店は思った以上に繁盛し、俺は幸せだった。
だから、彼女も幸せだと思っていた。
それなのに―――ある夜保管していた売上金を持って出て行ったきり。
帰ってこなかった。
多分、父親のところへ持っていったんだろう。
優しい彼女は、親を捨てきれなかったに違いない。
それ自体は想定内だったから、のんきに帰ってくるのを待っていた。
だが―――桜子と言う名は偽名だったことを後から知った。
これはショックだった。
どおりで、給与は現金が良いと。住民票の提出も結婚の届け出も拒んでいたんだな。
結局、彼女は俺を信用していなかったってことか。
俺の料理を食べて嬉しそうにしていた姿すら、嘘に見えてきた。
桜子の人生を変えてやろうなんて、なんて俺は馬鹿なお花畑野郎だったんだろう。
本名も知らない。本心も知らない。
結局、俺は桜子のことを、何一つわかっていなかったんだ―――
見習い天使が名前を付けてくれと言った時、実はちょっと躊躇した。
名前はその人を表す一部だ。俺が勝手につけたら、俺の色を押し付けているような気がして。でも、色音は喜んでくれた。そして今も横で嬉しそうに笑っている。
この笑顔がまがい物だと、疑えばキリが無いだろう。
でも、天使が嘘なんかつけるはずが無いんだ。
そう思ったら、急に体中の力が抜けたみたいに安堵した。
もう一度、信じたい―――
色音についてもっとちゃんと知りたいと思い始めた俺は、珍しく有休をとろうと考えた。
「なあ、色音。どこか行ってみたいところあるかい」
「行ってみたいところですか?」
「そう。一緒に遊びに行こうよ」
「いいんですか! 師匠! 嬉しいです!」
その場でぴょんぴょん飛び跳ねる色音。喜んでもらえるって、やっぱり嬉しいものだ。
俺は、行きたいところが想像しやすいように色々な画像を見せてみた。海、山、水族館、遊園地等々。
その中で色音が指差したのが動物園。
「この間テレビで見た、パンダに会いたいです」
「おお、いいね。じゃあ明日一緒に行こうか」
「わーい! パンダ、パンダ」
次の日、パンダ館のガラスにへばりついた色音。平日で空いていて良かったよと俺は胸を撫でおろした。でなかったら、時間制限で直ぐに出されてしまったはず。
腹を上に無防備に寝転んでいるパンダの姿に、コロコロ転がる色音が重なって、俺は思わずぷぷっと吹き出した。
「師匠、どうしたんですか?」
不思議そうに見上げた色音に、本当のことを言ったらどんな反応するかな。知りたい気持ちもあったが、とりあえず無難にはぐらかす。
「別に。パンダ可愛いなと思ってさ」
「ですよねー。グダァってしていて可愛い。ベッドで寝ている師匠みたいです」
「えええ!」
思わず大声をあげて、慌てて辺りを見回す。非難の視線に軽く会釈で謝ってから、色音に視線を戻した。
「いつの間に俺の寝顔なんか見ていたんだよ。いっつもお前の方が早く寝て遅く起きるくせに」
「途中があるじゃないですかー。夜中にこそっと起きてました~」
最近俺は寝つきが良かった。そして眠りも深かったから、寝起きが良くて体調が良くなったような気がしていたんだ。
もしかして……色音の天使パワーのお陰なのかなと思っていたんだよな。
まさか見られていたとは。
「そっか。でも、直ぐ飽きるだろ。こんなオジサン顔」
「飽きませんよー。師匠の寝顔可愛いです。パンダと一緒で癒やされます」
三十半ばの男を捕まえて可愛いと言える色音。流石見習い、いやポンコツ天使だぜ。
俺は赤い顔を持て余していた。
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