第二膳 『カレーの冷めない距離』
やっぱり来たか……
今日、
特に理由は無いけれど、雨が降っていたからかな―――
色音と出会って、色音が消えた日から二日後の土曜日。
久しぶりに休日出勤が無かったから、朝から寝坊を決め込んでいた。日頃の疲れをとるためには、ひたすら寝るしかない。
空の暗さと、しとしとと降り続ける雨のせいで、気分もだるくてちょうどいい。
お昼過ぎにようやく起きてカップラーメンをすする。
夕飯どうしようかなと思ったところで、冷蔵庫の野菜を使い切ってしまわなければと思い至る。
しかたない。アレにするか。
冷凍庫には牛すじ肉しか無かった。煮込むのに時間がかかるんだよな……そうだ! こんな時は文明の利器に頼ろう。圧力鍋で下準備をしてから次の作業にとりかかる。
うん、これなら夕方に間に合いそうだな。
コトコトと煮込みながら、携帯片手にぼーっとしていると、控えめなノック音が聞こえてきた。
インターフォンっていうものがあるんだけれどな。
俺はクスリと笑って扉へ向かう。この微かな音を聞き逃さなかった自分を褒めてやりたい気分だ。
予想通りの人物(見習い天使)が、びしょ濡れで立っていた―――
「びしょ濡れじゃないか! そのままだと風邪ひくぞ。早く入れよ」
俺の言葉に、ほっとしたように顔を上げた色音。
おずおずと手の平を広げて見せてきた。
そこには、ピンクの桜の花びらがたくさん。
ぎゅっと握り締めて走って来たのかもしれない。ほとんどが萎びたりよれたりしていて、覗き込んだ色音の顔に落胆の色が広がった。
「とっても綺麗だったから、この間の御礼にと思って持って来たんだけれど……綺麗じゃなくなっちゃった」
しょんぼりと背を向けた色音に、もう一度声をかける。
「まぁ、上がりなよ」
わざわざお土産持参で礼を言いに来てくれたなんて。
その気持ちだけで嬉しいってものさ。
振り返った色音は嬉しそうにコクリと頷いた。
それから少し鼻をひくひくとさせ、何とも可愛らしい笑顔を浮かべる。
だろうね。
部屋の中いっぱいにスパイスの香りが広がっているし。
「今日はカレーを作ったんだよ。良かったら食べてかない?」
ちょっとびっくりしたような表情。
それからすごく内面で葛藤しているのか、やたらと足元と天井で視線を往復させている。
そんなつもりで来たんじゃないのは分かってる。
図々しいと思われるのが嫌なのも分かっている。
でもカレーの誘惑に勝てる奴はそうそういない。
「実は作りすぎちゃってさ。口に合えばいいんだけど食べて行けば。それにさ、一人で食べるより二人で食べる方がもっとおいしいと思うんだよね」
お腹がグーと鳴る音が『いただきます』の代わりだった……
💐 💐 💐
とは言えど、びしょ濡れの色音をそのまま部屋に通すのは無理だ。
まずは色音の手のひらの花びらを器に入れさせる。緑と雨の匂いがした。
「桜だね。俺も好きな花だよ。ありがとう」
その言葉に、色音が安心したような笑みを浮かべた。
色音は全然気にしていないようだが、このままじゃ風邪ひくよな。
きょとんとしている色音を風呂場に連れて行き、シャワーの使い方を教えながら温かい湯をかけてやると、嬉しそうにまた目を輝かせた。
「ありがとうございます!」
「俺の服だけれど、ここに置いておくから、シャワーから出たら着るといい。後で服を買いに行こう」
「新しい洋服! 嬉しい」
色音はあの夜出て行った時のままの恰好をしていた。薄い白のワンピース。
きっと寒かっただろうに。
あの様子だと、どこかに天使の寮があるわけでは無さそうだな。どこで何をして過ごしていたのやら。
俺のトレーナーで、ほかほかの肌色を包んだ色音が出てきた。
タイミングピッタリに、テーブルにカレーを並べたが、食べ始めるのはちょっと待った!
ぶかぶかの上衣は腰も隠すが手も隠してしまっている。俺がしぐさで教えると、慌てて袖を捲り上げた。ようやく顔を出した指でスプーンを持つと、目の前のカレーに差し込む手前で止まっている。
「じゃあ、食べよう。いただきます!」
「いただきます!」
ごくごく普通の牛肉カレーだけれど、野菜たっぷりだから栄養満点さ。
艶やかな黄金色のルーの泉から顔を出しているのは、下処理してホロホロになるまで煮込んだ牛すじ肉。とろとろになるまで炒めた玉ねぎに煮崩れないように気をくばった人参とじゃがいも。
ルーは市販のだけれど、そこにガラムマサラやサフラン、ナツメグなど数種類のスパイスを独自に加えた上に、コクを出すためにウスターソースの隠し味も加えた。辛みは抑えておいたから、色音も食べられると思うんだけれどな。
湯気の上で鼻をスンスンしていた色音。
スプーンをまず、ルーの中に入れてちょっとだけ掬う。
ふうふうと息を吹きかけて……この間学習したことはちゃんと覚えているらしい。いきなりがっつかずに、まずは一口だけぺろりと舐めた。
「!」
目をまん丸くした色音。
「いろんな感じがする。複雑」
全身で確かめるように香りを楽しんでいる。
「肉も野菜も柔らかいぞ。ご飯と一緒に食べたほうが辛くないと思う」
コクリと頷くと、今度はご飯とルーを一緒にスプーンに載せた。
牛すじは舌で崩すことができた。人参の甘み。ジャガイモのつぶつぶした食感。
次から次に口に入れては、満足そうに微笑む色音を見ていると、誰かと食べることっていいなぁと心から思う。俺はさり気なく、気になっていたことを尋ねた。
「色音。今までどこで寝ていたんだい?」
「んー、お花のあるところ」
「え! もしかして公園か」
「あ、そうそう公園って習った!」
「見習い天使が住める寮とか無いのか?」
「そんなところありません。だって、天使の国に家なんてないから。でも公園には雨を防いでくれるところがあったし、私雨好きだし」
だめだ。こりゃ。
修行どころか、人間界で生きていくことすら、このポンコツ見習い天使には難しそうだ……。
俺は覚悟を決めて言葉をかける。
「なあ、色音。もしも……もしよかったらだけどさ、俺の家で一緒に暮らすか? そうすりゃ、修行もしやすくなると思うんだが」
色音の顔がパァッと輝いた。
「よろしいんですか!
何はともあれ、まあ、良かったよ。
だってさ、拾ってしまったら捨てるなんてことはできないよな。
それが犬でも猫でも……見習い天使でもさ。
少なくとも、俺にはできないんだよな。
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