第6話 惜別と人情
「二日酔いなんてしている馬鹿はいないよな」
翌朝、ベルティアは溌剌と挨拶をした。宿を片付け、いざ別れんというときである。
「クリスがさっき吐いてました」
「どぁー! なーんで嘘つくのかしらこのアマは!」
胸ぐらを掴んでがくがくと揺らす。
ユーディはじっとその顔を見つめ、自分の口元にチョンチョンと指を当てた。
「ついてる」
「え、嘘!」
ゴシゴシと拭うが、そこには恥ずかしさに染まる肌があるだけである。
「嘘だよー。付いてないよー」
「しばく! 絶対に!」
この日常だった風景もしばらくはお預けとなる。ベルティアはなんだか注意する気も起きなかった。
「湿っぽいよりはずっといいや」
「クリスのお嬢、そろそろ」
「ユーディのお嬢、こちらも」
誰かが収集をつけなければならなかった。ベルティアはそれをなんとなく放棄していたので、代わりにドットがした。
「旦那、本当にひとりで行くんですかい? あんたの腕を信じていないわけじゃないが、危険すぎる」
今回の任務はホツマを南北と中央の三つに区切り、そこへ騎士を派遣しスパイ活動をするというものだ。小さな国とはいえそれなりの面積はある。友人らの助けがなくては難しい。
ベルティアはホツマ皇国の中央、首都近郊を担当する。警戒も厳しく、素性が露呈する可能性も高い。他者との接触はできる限り避けなければならず、そのため彼だけは単独で動く必要があった。
「危険は承知している。それよりも連絡手段のことだがな」
接触を避けるということは、連絡も取りずらいということである。しかしそこは友人たちである、考えがあった。
「この住所に手紙を。符丁はいつも通りで」
「わかった」
ベルティアはそのメモを懐へ入れた。綺麗な筆跡は老婆を思わせる。
「それでは、神のご加護がありますように。って、俺なんかが祈っても無駄かもしれませんがね」
「馬鹿な。お前が報われなければ誰が報われる。言っておくが、騎士になれと言ったあの言葉、嘘偽りではないのだぞ」
ドットは涙を隠すよう俯いて、足早に北への分かれ道を抜けた。するとすれ違うように旅装の騎士がベルティアの胸に飛び込んできた。クリスである。
「今生の別れでもあるまいに」
笑いながら背を撫でてやると、もうひとり、眠たげな騎士がクリスに近寄ってきた。
「そこの金色ちゃん。私には、ハグはなし?」
「ユーディ」
クリスは男の胸から飛び出して、先の抱擁よりもずっと強くユーディを抱きしめた。
「まったくもう。甘えてばっかりのクリス。ドットの言うこと聞くんだよ? 危なくなったら逃げること。剣だけじゃなくて頭も使って、とにかく健康にだけは気をつけて」
「うん、うん。わかってる、わかってるよ」
それは十秒ほどだっただろう。騎士の辞別にしては長く、少女のさよならにしては短すぎた。
「よし! 元気でた、それじゃあ行ってきます!」
うさぎのように駆け出した。その背には多少の名残があったのかもしれないが、自ら振り払うような健気さが、ベルティアの胸を打った。
「お前は南だったな」
わかっていることをあえて聞いた。独り言のようでもある。
「隊長」
「なんだ」
ユーディは両手を広げた。
「私には、ハグはなし?」
「俺から?」
「そう」
照れながらも、少女の言う通りにした。甘い男である。ユーディはぽんと背を叩き、
「博打は駄目。お酒も控えて。喧嘩も厳禁。あと、女遊びも絶対禁止」
と、私生活への注意事項を並べた。普段のベルティアはこれらの半分ほどしか嗜んでいない。
「はっ、いい嫁さんになれるよ」
「いいお婿さんをもらうこともできる」
「駄目だ。結婚なんて俺が認めない。いいか、出会う男は皆殺しにしろ。しまったな、クリスにも言っておくべきだった」
今はそれでいいか。と、ユーディはするりと腕の中から抜け出した。
「ベルティア・ロードレッド殿、ご武運を。いってらっしゃいませ」
いつにない騎士然とした礼だ。そこに彼女の覚悟があった。
騎士として任を全うし、そして無事に帰還できるよう、祈りのための敬礼は震えている。
「ユーディ・ミシチェンカ副隊長、武運は祈らん。ただ健やかであれ」
ベルティアは背を向けた。涙は見たくなかったし、見せたくなかった。
「ここがホツマの首都、カミクラか」
別れから二週間が過ぎている。林道を抜けてからしばらくは舗装のない砂利道だったが、目的地へと近づくにつれて石畳になった。徒歩での移動は舗装の具合によって進行度合いが大きく変わってくる。悪路はどこにもなく、順調な旅路だった。
途中の宿とした村は質素だが活気があり、街は一層賑やかだ。首都ともなると人馬の足音と露店の客引きの声で天地が揺れるほどである。
往来は人の行き来が激しく、辺境の穏やかな風土から来たベルティアは、路地の居酒屋で安酒を煽り、その苛立つ神経を休めていた。
(うるせえのはどこの都も一緒か)
ティレル王都での勤務も経験がある。それを思い出し顔をしかめた。
「お姉さん、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
給仕の女を呼び止めた。昼時だが客はいない。それは路地のせいだからではなく、店主の偏屈さのせいでもある。
「腕っ節を買ってくれるところってあるかな」
偏屈な老店主は厨房の奥で新聞を読んでいる。眉間のシワは生まれた瞬間からそうであるかのように深い。
「お客さん、軍人になりたいのかい?」
そのくせ娘は綺麗な顔をしている。実の娘ではあるらしいが、気立ても良く、この看板娘を眺めに来る価値はあるのだが、流行っていないということは、やはり親父に相当な問題がある。
「おいの! 胡散くせえ奴と口を聞くな!」
「父ちゃんは黙ってって! ごめんね、あの人いつもああだから」
「構わないさ。それで、やっぱり軍人になるしかないのかい? こう、もっと気楽にやりたいんだが」
寂しい店内である、おいのはベルティアの隣に腰掛けた。
「気楽ったって、それじゃあ傭兵かい? やめときなよ、あんたみたいないい男がうちに借金取りに来たら困っちまうよ」
おいの、と叫ぶ声。父ちゃんと一喝されまた静かになる。
「傭兵が借金取り? なんでそんなことをする。山賊なんかを退治するんじゃないのか?」
「あらら、お兄さん、知らないのかい? ここらじゃ傭兵なんてゴロツキと一緒だよ。ちょっと人より力持ちだからって威張るろくでなしさ」
ティレルではそうではない。もちろんそういうタチの悪いのもいるが、基本的には戦争と人助けこそが信条の気のいい連中なのである。
「それじゃあ軍人にはどうやってなるんだ? 徴兵なんかしてたりしないか?」
おいのはしげしげとベルティアを眺めた。不思議そうに、客の酒を飲んだ。
「あ、それ俺の」
「ねえお兄さん、名前はなんてえの?」
ベルティアと名乗るのはまずい。騎士としてはそれなりに有名だと自負しているだけに、それは避けなければならない。
だが咄嗟のことである、まずいとは思いながらも、ついから正直が出た。
「ベルティアだ」
「格好からして、生まれはティレルかい?」
ホツマではほとんどが長着に帯を締めた格好であり、一般的なティレルでの上衣と下衣に分かれたものとはかなり異なる民族衣装だ。
身の上を語りたくはなかったが、おいのに愛嬌たっぷりに見つめられると口が滑る。
「そうだ。だが孤児でな、本当の出身はわからんのだ」
「あら、ごめんね私ったら根掘り葉掘り」
「いいのさ。俺の出身と軍に関係があるのかい?」
軽く首を振った。そして厨房へと走り、徳利と盃を持って来た。
「ベルさんね、いい男だから知りたくなったのさ。その潰れちまった目もイカしてるよ」
「ははは、ありがとう。でもな、親父さんがこっちを睨んでるから勘弁してくれ」
それは事実である。新聞越しに鋭く光るその眼光に、少し恐怖すら感じている。
「本当のことだよ。あんたモテるでしょ。そのいい男が軍人だなんて、寒気がするね」
「へえ、軍人ってのは嫌な奴なのか?」
「そうじゃないけどさあ、なんだか野蛮な気がしてさ。だって傭兵の親玉みたいなもんだろ?」
市民の感覚としてはこれが一般的なのだろうか。判断はつかないが、騎士にもこんな感情がぶつけられているのかと思うと複雑である。
「なるほどねえ」
カミクラに着いてから数日が経っている。最初の夜は疲弊甚だしく路地で死んだように眠ったのだが、目をさますとこの居酒屋「おいの」の客間にいた。行き倒れかと思われ看病されていたのである。スパイであると伝えるわけにもいかず、そうすると行き倒れに間違いないなく、それから居候させてもらっている。
「でも、いつまでもここに仮住まいじゃ情けない。軍なら寮があるだろうし」
「何を言ってんのさ。せっかく勇気を出して名前まで聞いたってのに、もう出てっちまうのかい?」
おいのが何かを言うたびに、親父がギロリと睨んでくる。この板挟みからも逃れたかった。
「金は稼がないと」
「うちで働きなよ、今なら三食昼寝付きさ。何せ、この有様だからねえ」
「笑っちゃまずいだろうが、魅力的だな。しかし、孤児院に金を送らねばならん。小さな弟妹どもに飯を食わせられるだけの給金となると、軍が一番だと思うんだ」
「片目が潰れて、しかもトウのたった男がかい?」
「俺はまだ三十前だよ」
「私より十五も上じゃないか」
おいののことをてっきり二十歳かそこらだと思っていたが、確かによく見るとまだ幼さがあるようにも見えた。
「へえ、それにしては大人びている」
「苦労しているからね。ま、うちは薄給もいいところだから、無理に引き止めることもできないね」
「世話になった。いくら感謝しても足りないな」
腰をあげる。小銭を置いて店を出た。これ以上のんびりとした空気に浸っていると、本当に居着いてしまうだろう。
「ベルさん!」
店の外にまで追いかけてきたおいの、置いてきた小銭をベルティアに握らせた。
「なにになるにせよ頑張らないといけないよ。でかい図体してるんだから、兄弟を食わしてやんなきゃ」
これは餞別、と渡された小銭は、飲み食いした額よりも多かった。断ろうとも思ったが、彼女の心意気を無下にはできなかった。
「最初の給料が出たら返しにくるよ」
「やめておくれよ。今度来る時は、偉くなって、わんさか人を連れてきておくれ」
背を叩かれて路地を出た。見送りはなく、路地には清々しい風だけが吹き抜けていたが、それも往来に出るとすぐに消えた。
(俺がスパイだと知れば、どう思うだろうか)
感傷に胸が疼いたが、頭を振って打ち消した。人の波に紛れると、それも幾分落ち着いて、次第に余裕も生まれる。
そこでふと、軍人らしき人物を見つけた。
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