第2話 秘密任務
「隊長、報告書終わりましたァ」
基地に戻って数日後、クリスは一枚きれの書類を提出した。
平時であるため甲冑ではないが、革製の軽鎧がなんとも艶やかに見えるのは彼女の美しさのためだろう。黄金の長髪を軽く後ろで結い、数束の前髪が目にかかるその涼やかさ、大きな瞳がウインクをすると男どもは失神しそうになる。
秋口、木漏れ日の緩やかな晴天である。クリス・ウィンケルクはその赤い唇に歌でも携えそうなほど軽やかだ。
「先日の村での件なんですが、とりあえず全員殺したってことで処理しておきました」
ベルティアはそれを受け取って顔をしかめる。彼女の態度にではなく、異常なほどの悪筆を嫌った。
「ご苦労。でもな、ユーディに書かせろっていつも言ってるだろ」
クリスはほとんどの仕事を自分でしたがる。誰かに任せるということはまずなく、責任感が強いともいえるのだが、そのどれもが彼女の欠点によって半端なものになっている。
「字は汚い。期限には遅れる。料理はうまくもなくまずくもなく、見回りも半分寝ながら。これじゃあ罰金だけで給料がなくなっちまうぞ」
報告書に判を押す。なんだかんだ言っても部下には甘い男だった。
「でも、書いた字は読めるし、期限だってちょっぴり遅れるだけですよ。お料理は勉強中だし、それに私、密偵の検挙率は結構いいんですよ?」
擦り寄られると、ベルティアは逃げるように椅子を引いた。机の下から太ももが現れると、クリスは待ってましたといわんばかりにその膝に座った。
「この態度が問題なんだよ」
多少の問題が霞むほどにクリスは騎士として無類の強さを誇る。ベルティアはそれがまた気に入らない。
「いいか、お前は優秀だがな、そういう奴ほどしっかりと人間として成熟してないといけないんだよ。騎士として他人の模範となるよう心がけなければならんのだ」
「お説教よりィ、愛が欲しいなァ」
ベルティアは閉口した。しなだれかかられ、立ち上がってそれを阻止した。公私は分ける男である。とはいえ、私生活において二人に特別な何かがあるわけではない。友人ではあるがそれを仕事の場所へと持ち込みたくなかった。
「あのな、俺はお前の先輩だ。それに騎士育成学校でお前の面倒を見たのも俺だ」
「えー、恩人のいうこと聞けってことですか? それって自分で言っちゃいけないやつじゃないですか?」
それはそうなのだが、恩があるとわかっているのなら慎んでくれと思うベルティアである。
「用事は済んだだろ。もう戻れ。訓練に行け」
はァいと間延びした返事にこめかみを抑える。自分が上司のうちに直さなくてはと使命感に燃えたこともあったが、最近はもはやどうでもよくなってきている。
「あ、そうだ。守護長がお呼びでしたよ」
「そういうことは早く言え」
苦い顔のベルティア、クリスはそれを見届けてから弾むように部屋を出た。
「はあ、昔はもっと素直でいい子だったんだけどなあ」
伸びをして、報告書をもう一度眺めた。「書き方も教えたし、マニュアルだってあるのによう」
上司からの呼び出しにいい思い出はない。それにクリスのこともあって足取りはかなり重く、向かう途中の長い廊下でため息をついた。
バシン。後ろから背を叩かれる。振り返るともう一人の部下が、無表情でピースサインをしている。
「ユーディか」
「隊長、どうかしたの」
寝ぼけたような目つき、まぶたの奥にはめ込まれている翡翠は彼女にとても似合う。大人しそうなゆっくりした口調ではあるが、クリスにも負けず劣らずの実力者で、小隊の副隊長をしている。
くすんだ銀色の短髪には寝癖の跡がついていて、ベルティアはそれを指摘した。
「寝癖。呼び出しに応じるってのに、副隊長がそんなんでどうする」
「むぅ、寝癖なんて、ない」
ベルティアもごまかせる範囲であれば細かく文句は言わない、しかし彼女の後ろ髪はことごとく跳ね散らかっている。
「直してこい」
「だめ。守護長に呼ばれてるから。急がないと」
あの人はそんなこと気にしない。ユーディはそう言ってベルティアの手を引いた。
「注意されるのは俺なんだぞ、おい、ユーディ」
ノック三回、入ってくれと声がする。
「失礼します。ロードレッドです」
「忙しいのにすまないね」
眼鏡をかけた初老の男、彼がこの辺境守護部隊を統括するグレイ・フールである。
「かけてくれ、お茶でもどうかな」
革張りのソファを勧め、彼は自らお茶を淹れる。普通は従者や側近というものが身の回りの世話や業務を手伝うのだが、グレイはそれを嫌う変わり者である。
「いただきます」
遠慮をしないユーディは素早く座り来客用の茶菓子を食った。
「よく注意しておきます」
「ふふ、きみも遠慮しないで食べなさい」
上司からあれこれと気を使われ尻がむず痒くなる。ベルティアは居心地悪そうに小さくなって座ったが、ユーディは平気なようである。砂糖菓子をひとつ摘んだ。
湯気の立つティーカップが置かれた。わざわざ取り寄せたと噂の茶器である。
(とびきり上等な奴だ。ここまでしてもらうってことは、また厄介な仕事か)
紅茶は確かにうまかった。味にそれほどこだわりのないベルティアでもわかるくらいである。
「大変美味しいです。でも、あの、私たちは何故呼ばれたのでしょうか」
切り出すのにも神経を使った。できることならこのままくつろいで談笑でもして帰りたかったが、それは無理だろう。グレイは対面に座ったまま微笑みを絶やさず、むしろ切り出してくるのを待っていた。
「もう少しゆっくりしていきなさい。先日はご苦労だったね。報告書を」
手渡すと、彼は眼鏡のつるに指を当てた。
「クリス・フォンリッテン。彼女が騎士になったのも、つい先日のような気がしますね」
そこに嫌味はない。親類だけが持ちうるような優しさが、彼の口元を柔らかく緩ませた。
「ええ。もう十年になりますが、しかしいつまでも見習いのような腕白ぶりで」
六歳で騎士育成学校に入学し、二年で卒業した才女である。ずっとベルティアの下で学び、そして働いてきた。
「あなたがここに赴任してから基地の人手不足はかなり改善されていますし、感謝していますよ」
「何を仰る、一年じゃあ変わりっこありませんよ」
討伐任務の標的を勝手に働かせているなどと知れれば大ごとである。彼自身が処罰されてもおかしくない。
騎士団での雑用は主に騎士見習いが担当し、騎士の花形といえば王都での勤務で、辺境への派遣を拒むものは少なくなく、また重要視もされていない。
そのためベルティアたちのいる辺境は慢性的な人不足であり、近くの村や町から人を雇うにも金がかかる。そういう理由があってベルティア独自の人足の手配は半ば黙認されていた。
「あなたは優秀な騎士ですよベルティア。もちろんあなたもです、ユーディ・ミシチェンカ」
「どうも」
「こら、お辞儀ぐらいしろ。菓子から手を離せ」
強引に頭を下げさせると、不服そうに睨むユーディ。「守護長、本当にすいません。きつく叱っておきますので」
グレイはいい意味で舐められている。人柄も良く、彼の怒鳴り声を誰も聞いたことがないほどに温厚で、ベルティアたちの問題行動すらも微笑みで済ませてしまう。しかしこの基地の経営や周辺の警護活動には尽力し、自らも散歩と称し見張りにつくこともある。住民からはひどく慕われて、その一方で変わり者だと王都では蔑まれている。
その変人ながら善人のグレイはほんの少しだけ眉間にしわを寄せた。
「ところで、最近になって我々の友人から報告がありましてね」
この友人というのは一種の符丁で、ベルティアが雇っている元ゴロツキの斥候である。おおっぴらにするわけにもいかないのでこのように呼称していた。
「と、言うと」
「ホツマからちょっかいを出されているようなのです。国境線の付近での軍事行動や、挑発行為が数件挙げられています」
ティレル神聖王国と隣接する東側の大国をホツマ皇国という。国土は小さいが民は強靭で、何度も戦争をしてきた歴史があるが、最近は静かなもので、国同士のトップが秘密裏に停戦を結んだのではないかとされている。
そのホツマがなぜ。ベルティアは怪訝そうに、そして自分に届いていない情報を持つグレイを不審がった。友人たちにはまず最初に自分へ報告する命じてあった。
「それはいつの情報でしょうか」
「今朝です。あなたには届いていませんか? 古株のドットさんからの情報です、あの方はなかなかに忠義者だと思っていたのですけど」
「じゃあクリスじゃないですか? あの子で止まったとしか思えない」
ユーディは四つめの菓子に手を伸ばす。
「申し訳ない、守護長。不忠義者には罰を与えておきます。それで、私たちは何を」
背筋を伸ばした。ユーディも頬を菓子でいっぱいにしながらもそうした。
「今の段階ではまだ何もできません。ですが戦意を確かめておく必要があります。軍備や食料、徴兵の度合いなんかも知っておかなくては」
挑発するということは戦争に勝てるだけの自信があるのか。それとも下っ端の独断か。また物資の状況を知っておけば有事の際に備えられる。これは敵陣へと深く深く潜り込み、そして得た情報を持ち帰らなければならない。友人たちでは潜り込めても帰ってこれない可能性の方が高いため、実力のある騎士でなければ任せられない。
「騎士ベルティア・ロードレッド。あなたの小隊で敵の実情を探ってきてください。くれぐれも他言無用、このことは墓まで持っていきなさい」
二人は合わせたように立ち上がり、礼をとった。勇ましく返事をし、
「あの、これもらってもいいですか」
と、茶菓子をねだるユーディに容赦のない拳骨が降ろされた。
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