第2話

 地動歴××年、3の月の中旬。

 依然、外は不安定な天気が続いており、雨天は今日で5日目となる。先日と違って今日の雨は霧のような弱いもので、読書をするには向いていると判断した。私の外套に埋もれるようにしてベッドに横たわる怪物を尻目に、黒い表紙の本を開く。

 町の北端にある宿屋の亭主に事情を話すと、快く空き部屋を手配してもらえた。それどころか、わざわざこの雨の中、近隣の医師や薬師に依頼して包帯液等用意してもらう始末。彼らには感謝してもし足りない。せめてもと、代金はそれぞれに多めに渡したのだが、定価で計算されてしまった。おかげで1カ月は此処に留まることができてしまう。聊か心苦しいが、怪物が目を覚まさない以上この場から動くわけにもいかないので、好意を素直に受け取ることにした。このような善き人々と巡り逢うことができたのは、大精霊マーリン様の導きあってこそだろう。胸元で手を組み、遥か遠く沈んだ故国に祈りを捧げる。

 それにしても、と独り言つ。人工嵌合生物――カイメラをこの目で見る機会が訪れるとは、夢にも思わなかった。我が故国のアヴァロン王国は住民の9割を魔人が占めるだけあって、病理解剖等と言った身体実験を法律で禁止されている。それ故、異種交配で産まれた子であるならまだしも、人工的に、しかも様々な魔人族の身体情報を組み合わせた生物は故国では存在しないことになっている。此処はアヴァロンではないとはいえ、他国でもカイメラを産み出すことは御法度の筈だ。そこまで詳しいわけではないが、トリニティ教の教示に反していると聞いている。だが、目の前に横たわっているのは紛れもなく『生命体』だ。それがどんな経緯で生まれてしまったのかは不明だが、この世に存在してはいけない存在だろう。ならば私がすべきことは決まっている。


 ――この子を、殺さなくてはならない。


 そうしなければ、この子はきっと今よりも不幸な目に遭う。魔人の全体数が減少し続けている今、人工嵌合生物であるこの怪物がどういう扱いをされるのか想像に難くない。軽い中傷や迫害はまだ軽い方で、魔人族の復興を目論む不逞の輩がこの子を実験体にしたり、新たな怪物を産む為の母体として扱われたりする可能性がある。死よりも辛い環境下にこの子が置かれること、それだけは絶対に避けなければならない。

 不意に、怪物の手が動いた。

 私は咄嵯に本を閉じてベッドの方へ視線を向ける。怪物はゆっくりと、本当にゆっくりではあるが、瞼を上げた。鮮血の如き赤き視線が、一斉に私に向かうのを見て――この時初めて気付いたが、この怪物は複数の魔人の身体情報を持つだけあって、顔以外にも手足と胸元に一つずつ瞳があるのだ――私は一瞬、たじろいだ。


「――目が、覚めましたか。」


 最初の一言が震える。しかしそれを気にする素振りも、返答も無かった。相手はただ黙ってこちらを見つめているだけだ。

 「あの、」沈黙に耐え切れず、思わず口を開いてしまった。すると、それを遮るかのように怪物は引き攣った顔を浮かべたのだ。訳も分からず黙って様子を伺うと、怪物は一般的な生物よりもずっと素早く、そして激しく呼吸をし始めた。明らかに眠っていた時よりも過分に呼吸をしてしまっている、これは拙い。


「落ち着いて、どうか落ち着いてください。此処にはあなたを害する者は存在しません。」


 私は不躾ながら、怪物の両肩に軽く手を置き、呼吸の安定を試みる。しかし、怪物は一向に落ち着く気配は無く、寧ろ更に酷くなった。遂には苦しげに顔を歪ませ始め、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、空気を求めて喘ぎ始める。このままでは窒息してしまう。私は急いで怪物の頭を抱きかかえるようにして上体を起こして屈ませ、背中――正確には翼の付け根辺り――に手を添えて、ゆっくりと押してやる。


「慌てないで、私の真似をしてください。ゆっくりで良いので、今行っている動作の速度を落とすことを念頭に置くのです。」


 こういう状況に陥った時、口元に袋状の物を当てて呼吸すると良いと話を聞いたことがある。しかしこの部屋にそういった物があっただろうかと思考を巡らすが、該当する代物は思い当たらない。無意識に、首元のジャボに飾られた"箱"に触れる。いや、"これ"は今は関係無い。

 否定するように目を閉じてしまったからなのか、怪物の次の動作に対して反応が遅れてしまった。


「なッ――!? ぅむ、ン、」


 捕食される、と思った。

 実際にはそんなことはなく、私の唇は、怪物の唇で塞がれている。気が付けば怪物の両手は、私の後頭部に回されていた。眼を閉じることも、離すことも出来ない私は、ただ只管に怪物の眼を見つめる。小さな体躯からは想像もできない程に強い力に、振り解くのを躊躇していた。

 驚いて口を開いてしまったのもよくなかったのだろう、開いてしまった口から容赦なく怪物のザラザラとした長い舌が入り込み、私の舌を吸い上げるようにして口腔内を貪った。成程、口腔内もある意味袋状である。と冷静に考察する精神とは裏腹に、何もかもが初めての感覚な為に、全身の体温が下半身を中心にして一気に急上昇していくのを感じていた。怪物が私の髪を強く握るせいで髪飾りが外れ、それが床に落ちる音がしても構わずに私が吐き出す空気を吸い上げる。

 暫くそうしていると、次第に怪物の身体から力が抜けていくのを感じた。やがて呼吸が安定したことを確認してから、そっと口を離す。怪物の顔は未だ紅潮していたが、先程のような激しい運動は見られない。どうやら本当に落ち着いたようだ。

 私の方はと言えば、先程の状況に現実味が無く、恥ずかしながらやや放心してしまっていた。「……失礼。」その様子を大きな双眸で見られていたことに気付いて慌てて我に返り、ポケットから取り出したハンカチで怪物の目元と口元を拭った。その動きを追う視線が、少し残念そうに見えたのは恐らく私の錯覚なのだろう。


「落ち着いた、ようですね。良かった。お互い、色々と話したい事があるとは思いますが、取り敢えず一度食事にしませんか。何か、あなたでも食せるものがないか探してきます。」


 力の抜けた怪物の腕をそっと外し、立ち上がろうとした。のだが、怪物が私の髪を掴んだままだったので中途半端な体勢で静止せざるを得なかった。「あの、レディ・カイメラ?」と声をかけるが、またもや反応が無い。視界に映る怪物の指先の動きを見ていると、全身が粟立つような奇妙な感覚が襲ってきてどうにも座りが悪くなる。未だ身体が火照って熱いのに、更に熱くなってしまいそうな気がして。

 それから怪物は何かを確認するかのように何度か私の髪を梳いた後、満足したのか手を放し、再び布団の中に潜り込んでいった。その一連の流れを見て、私は怪物が何を考えているのかますます理解ができなかった。異種族だからであろうというのもあるが、気まぐれにも程があるというか、自身のペースでしか動かないというか。失礼ながら、その傍若無人ぶりは父と少し似ている気がする。父の顔を思い出すついでとばかりに幼少期に行われた父の厳格過ぎる教育を思い出してしまい、体温が急速に降下した。今度から同じような状態に陥った時は父の教育を思い出そうと心に決める。怪物に関しては未だにどんな感情を抱くべきなのかわからないまま、私は怪物に背を向けた。

 扉を閉め、空間を隔てる。

 すると同時にふわりと漂う、パンが焼ける匂い。それから、目覚めを告げる吟遊詩人の歌声。ラウンジに続く廊下は未だ静寂なれど、平和な日常を謳歌している気配を感じた。だというのに私ばかりが焦り、募る。


 ――もしかして私は、子供に手を出してしまったのではないか、と。


 怪物の実年齢は未だ不明だが、レプラカーン族のように小さな体躯を持つ成人の可能性は否めない。しかしその仮説を差し置いて身体の大きさや顔の幼さから年齢を判断すると、10代未満の子供にしか見えないのもまた確かだ。そんな相手と、子供の未来を守るべき存在である大人の私が、恋人同士が行う接触をしてしまった、だと? 故国の法律、騎士道、倫理観――全てに反している。

 私はそもそも、不幸な未来を歩むかもしれない怪物に、憐憫の情を抱いたからという理由で命を奪うつもりだった。未遂にしろ、完遂したにしろ、その罪は決して赦される筈がない。それを理解していたからこそ、実行した暁には墓場まで持っていく覚悟だった。しかしこれは完全に予想外だ。一体いくつ罪を重ねていくつもりだ、ガラハド。品性下劣にも程がある。これでは怪物にも、陛下にも顔を合わすことはできまい。

 陛下、大精霊マーリン様、どうか、どうか私を赦さないでください。精霊の皆様が既に見放した世界ではあるけれど、それでも、もしもこの地にまだ残っているとするならば。海の底で、見守っているとするならば。どうか、この行いを、罪を、お見逃しにならないで下さい。そして何より、自分自身を。

 そう祈りながら、階段をゆっくりと下りた。非現実的な状況に混乱していたからなのか、『そもそも先に手を出したのは怪物の方だ』という基本的な情報すら頭から抜け落ちていたのだが、そんなことは知る由も無かった。

 部屋に持ち込めるように配慮された朝食を宿の従業員から受け取り、音を立てずに部屋に戻ると、先程の体勢のまま目を閉じた状態で眠る怪物の姿があった。部屋を出る前とそう変わらない姿に安堵する。それにしても、先程までずっと寝ていたのにまだ眠れるのか。絶句すると同時に、羨望の眼差しで怪物を見てしまう。

 そんなくだらないことを考えていたら、面倒な事に身体が空腹を訴えてきた。無意識にテーブルに置いた本日の朝食に目を向ける。パンからは湯気が立ち上がり、焼き立てであることを主張している。私はパンを手に取り、さして味わいもせずに咀嚼し、嚥下した。パンの熱が口内を少し痺れさせたが、そんなことはどうでもいい。パン一つ消費する間、これからどうするかをひたすらに考える。怪物をどう扱っていくか、次に向かうべき場所は何処か、問題ならいくらでも浮かぶ。とりあえずトリニティ教の本拠地がある、このコンセンテス帝国からは離れた方が良いかもしれない。コンセンテス帝国から北西の方角――イス王国へと一度向かおうか。イスには知り合いもいる、怪物の事について一度相談してみるのも良いかもしれない。

 大まかに方針を固めていると、不意に視線を感じ、顔を上げた。いつの間にか起きていたらしい怪物が、じっとこちらを見つめている。その目は相変わらず何も読み取れず、ただ無感動に私の姿を映すだけだった。ふと、思う。さも当然のようにヒューマン用の食事を持ってきたが、これは怪物の口に合うのだろうか、と。「レディ、」と声をかける。その瞬間、赤い瞳が輝いたような気がした。


「朝食を、持ってきました。お口に合うかは分かりませんが――」

「あ。」


 言い終わるか否かのタイミングで、怪物は小さな口を大きく開けた。まるで親鳥の帰りを待つ雛のように――いや、待て。待ちなさい。これはひょっとして、私に食べさせろと言っていらっしゃる? 一瞬だけ意識が飛んだが、なんとか気を持ち直す。もしや甘えているのか、しかしこんなすぐに懐くだろうか。鳥型の魔人は誕生から覚醒してすぐに視界に飛び込んできた生物を、親として覚え込むのだという。その愛着は、一生続くのだとか。この怪物も、背中の翼が鳥のようであるし、何の魔人族だかは判別ができないが、それと類似した身体情報を持っているという事なのだろうか。だとしたら先程の接触行為も、ある魔人種の身体情報から来る生命現象の可能性がある――と考えたところで『そんなわけがあるか』と冷静に一蹴してしまった。

 とにかく目の前の状況を打破しなくては。どうでもいいことを無駄に考え込んでいる間に、パンやスープが少し冷めてしまっている。私はスプーンを手に取ると、白いスープを軽く掬って怪物の口元に差し出した。怪物は何も言わずに口を開けてそれを受け入れる。ぱくり、と閉じられた口の中で、何かが砕ける音がした。

 食べたな、スプーンごと。


「――いえ、スプーンは食べ物ではありません。吐き出しなさい。」


 流石にすぐに我に返った私は、怪物の口元に手を差し出して今口に入れたものを吐き出すように促す。妙に物分かりが良い怪物は、此方の望み通りにスプーンだけ吐き出した。噛み砕かれてしまったせいで元の形を失くしてしまっているが、飲み込む前に動けて良かったと思う。さっさと捨ててしまおう。

 ところで、スープには何らかの動物の肉片が入っている。私は言われた通りに吐き出してくれたご褒美のつもりで、それを怪物の口に入れてやる。今度はフォークを使った。すると、怪物は美味しいものでも見つけたかのように目を細めて、一生懸命に頬張り始める。なるほど、肉食。


「……。」


 善意で行ったわけではないのだが、こうも純粋に喜ばれてしまっては此方の緊張も緩んでしまう。小動物を愛玩するかのように、怪物の頭を撫でたくなった。しかし相手が相手なので、不躾な衝動を押さえつけてまた一口差し出す。怪物は満足げに微笑みながら、一口、また一口と、差し出されたものを享受した。

 この怪物、やはり雛なのでは。

 空になった食器を下の階の従業員に渡し、部屋に戻る。目覚めたばかりの時と違い、怪物はベッドの上に横を向いて座っており、気に入ったらしい私の外套に包まっていた。私はそんな怪物に向かって、声をかける。


「さて、レディ・カイメラ。私の言葉、お解りですね。私の言葉を理解し、行動していた聡明なあなたであれば、これから何をすべきかもまた、理解できている筈です。」

「……。」

「あなたにとって不本意かもしれませんが、傷付いたあなたを拾い、数日世話をしたのは私です。ですので、拾得者の責務として、あなたの進退を決めねばなりません。」


 先程は予想外の連続で思考が散在してしまったが、怪物が完全に覚醒した以上、現実逃避は許されない。私は、怪物の前に膝をついた。


「しかし、私一人の思い込みだけであなたの未来を決めたりはできない。私はあなたを理解し、あなたの希望に添えるように尽力します。どうか、お答え頂けますか。」


 怪物はゆっくりと、頷く。


「ありがとうございます。では、初めに――あなたは、何者ですか?」

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