3-18
「……お前はその男の部下なのか?であれば、確かにお前の言った、身勝手に相手を理解したとでもいうような傲慢、そしてそれを上官に対して行う事など許されるものではない」
サヴェリエフはマグカップを静かにおいて、ミコトを見据えるように目を細めた。切れ長のアイスブルーの双眸が、鋭くミコトを射抜く。
「しかし、口先だけという可能性があるにせよ、その男とお前は友人関係という対等であるべきである関係性を築いた。であれば、多少の傲慢であれ、お前はその男に心を砕き、助けようと声をかけた。それを拒絶されたからと言って、失敗であったと決めるのは早計というものだろう」
サヴェリエフは少し冷めたコーヒーを飲んでから、続ける。
「人間同士が真に理解し合えることなど、ありえる筈はない。まして、一瞬理解し合えたとしても、すぐにまた、できない部分が浮上して来る。だからこそ、戦争は起きるし、人は殺し合うし、誤解やすれ違いは生まれるのだ。――わかるな」
俯いていたミコトが静かに頷くのを確認して、サヴェリエフは続けた。
「だが。理解を止めるのは怠慢だ。今、お前はそれを放棄しようとしている。放棄すれば二度とお前はその男と関わる事はなくなり、葛藤と苦痛から抜け出すことはできるだろう。だが。失ったものは二度と戻らない」
サヴェリエフは目を伏せて、再びコーヒーに口をつけた。
「二度と……」
「幸い、此処は戦場ではない。……一分や一秒で、失われることは無いのだから、よく考えろ。……お前はこの国に来て、平和ボケに染まり、失う事の空しさすらも忘れてしまったというのか」
厳しく言われて、ミコトの学ランの胸元のドッグタグのペンダントに意識が向いた。二枚の認識票が、過去の呼び声となってミコトの心を突き刺した。
「私は忘れられんよ。子供たちを、同胞を。祖国で失ったあの子供たちの顔を。……それに――私の義息子のライカは、生きていればお前と同じくらいの年になるはずだ。……私は、息子を失った悲しみに耐えらえなかったからこそ、冷酷極まるあの雪と氷の国を捨てたのだ」
ライカ。ミコトが今、身につけているドッグタグに刻まれた名前だ。サヴェリエフにとっては義理の息子であり、ミコトにとっては同年代の仲間だった。
「……話がそれたな。要するにだ。失いたくなければ、戦い続けるべきだと、私は思う。向き合わなければ、分からないことがある。それに私は、一度の失敗で諦めるような兵士に育てた覚えも、記憶もない。……お前は、どうしたいのだ?」
深くしわの入った老兵の顔には、吹雪のような厳しさと、降り積もる雪のように静かな慈悲が宿っていた。
ミコトはしばし躊躇った。あの悲痛な叫びを、強い拒絶を投げかけられて、彼から離れようと思った。「ほうっておいてくれ」と自ら希望した彼のために。
それはしかし、彼と向き合わず、逃げるだけの――所謂、甘えではないのか。敵前逃亡に等しい、あまりに無様な行為。自分が可愛いだけの、愚かで、臆病で、浅ましい行為でしかないのでは、と。
「……できることなら、彼との関係を修復して、真に友達と呼べる存在になりたいです。彼と向き合いたいと、思っています」
「それならば、それ相応の努力をし、完璧な作戦を立てるのがお前の最重要事項だと私は考える。私が言えるのは以上だ。――健闘を祈る」
マグカップを置いてサヴェリエフは立ち上がると、当時と変わらぬ凛々しい敬礼をして、ミコトに背を向けた。
ミコトは慌てて立ち上がると、その背に敬礼を返す。
「……ありがとうございます、大尉」
ミコトの敬礼に、サヴェリエフは「もう大尉ではないと、何度言ったらわかるのだ」と言って、踵を返した。
「大尉――サヴェリエフ大尉として、ひとつお聞きしたいことがあります」
ミコトは、ライカのドッグタグを詰襟の中から取り出して、サヴェリエフに見せた。
「……ライカは、本当に戦死したのでしょうか。俺は戦場を彷徨う中、彼のドッグタグを拾いました。――しかし、彼の遺体は見つかっていないと聞きました。もしかしたら、行方知れずという可能性も――」
「あるはずがない」
サヴェリエフのその断言は、突き刺すように冷たい声だった。
「あの子は、戦場でしか生きられない子だ。だからこそ私も彼に猟犬の名を与えたのだ。敵兵を愉しげに追いかけるさまも、仕留めるさまも。まさしく猟犬のようだった。……そんなあの子に、今、何処に生きる居場所があるというのだ。この平和な世界に」
表情は背を向けていて見えなかったが、サヴェリエフの声は何処までも重く沈んでいた――呪詛のようにも、ミコトには聞こえた。
「……お前も、たまに想うことは無いか。戦場を。そして、この世界が息苦しいと思った事は無いか。清浄すぎる水は、一部の魚しか棲むことはできない。私たちのような、汚濁に等しい水に棲んでいた生物には、……とても、生きづらいと」
それだけ投げかけて、サヴェリエフは用務員室から出て行った。かつて戦場で頼もしいと思っていた軍人の背中は、痩せこけた老人のように――事実、そうなのだが――小さくなってしまったようにミコトには思えた。
「……」
ミコトは所在なげに視線を彷徨わせてから、冷めきったコーヒーにようやく口をつけた。
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