第26話 満たされない

 その日の夜は、ルーニルの家に匿ってもらうことになった。

 俺が意味不明な敗北宣言を出したことで、大会関係者や観客などがまだ騒いでおり、宿に戻ることができなかったのだ。

 リファとサイラは帰宅し、俺たちは空き部屋に二人きり。

 ベッドがなかったのだけれど、野宿用に持ち運んでいる敷物とかけ布団があるので問題なし。屋外ほど地面もでこぼこしていないし、寝心地は十分に快適だ。

 それはそうと。


「……何をそんなにすんすんとしているのかな?」


 トーチカが俺に抱きつきながら、首筋に鼻先を近づけ、しきりに匂いを嗅いでいる。旅の途中でもよくある光景だが、今日は特に執着しているように感じる。


「……なんとなく、サイラさんの匂いがするような」


 ギクリ。

 なんて、ふと硬直してしまうが、別に何もやましいことなどしていない。大会の途中、ちょっと不意打ちで距離を縮められた程度の話。


「なんのことやら」

「わたしがいない間に何をしていたんですか?」

「なにもしてないよ? 本当だよ?」

「ふん。嘘が下手ですね。実のところ、サイラさんが一瞬レイリスに抱きついたことは、映像魔法で見ていたのです」

「……あ、そうなのか」

「正直言うとちょっと不快でしたが、過ぎたことはもういいです。わたしの匂いでサイラさんの匂いは打ち消してしまいましょう」

「……まぁ、気の済むようにやってくれ」

「そうさせてもらいます」


 トーチカが俺に体を擦り付けてくる。くすぐったいからやめれ。

 しばらく放置していたら、またトーチカがしきりにすんすんし始める。


「サイラさんの匂いはさておき、今日は一日動き回っていたから、レイリスの匂いが濃いですね」

「……浄化魔法、かけてくれてもいいんだよ?」

「いやです。堪能します」

「……さよか」

「いい加減、これくらい慣れてください」

「へいへい。ってか、一日中動き回ることだって珍しくないだろ。何か違うのか?」

「なんとなく違うような……。いつもよりちょっとまろやかです」

「ごめん、何を言ってるか全然わからない」

「そうですか。まぁ、ほぼ一日離れていたので、嗅覚が鋭くなっているのかもしれません」


 すんすん。すんすん。

 すぅはぁ。すぅはぁ。

 なにこのエロい生き物。

 興奮して来ちゃうぞ。

 すんすん。すんすん。ぺろん。


「うぉいっ。首筋を舐めるな!」

「じゃあ、どこなら舐めていいんですか?」

「舐める前提か! ばっちいからやめなさい!」

「人間、多少の汚れを取り込んだところでどうにかなるわけではありません。そんなことより、浄化魔法の代わりに全身舐め回して綺麗にしてあげましょうか?」

「発想が変態的すぎるだろっ! 綺麗にもならないし!」

「む。流石に冗談のつもりでしたが、わたしの唾液はそんなに汚いですか?」

「汚いとかじゃないけど! トーチカの唾液ならコップ一杯分だって飲み干せるけど! それとこれとは違う!」

「……コップ一杯分の唾液だなんて、レイリスは変態ですか?」

「お前が言うか!?」


 くすくすくすくす。

 トーチカが愉快そうに体を揺らす。

 それから、ぎゅっと抱きしめる力を強めて。


「もう、今日みたいに離れるのは嫌です」

「……そうだな。離れたくないよな」

「いっそ一つになれたらいいのにって、よく思います。けど、一つになってしまったら……レイリスを求める強い気持ちも、共にいられることの喜びも、感じられなくなってしまうのでしょうね」

「そうかもしれないな。二つに別れているからこその幸せもある」

「昔、母が言っていました。『人は完成を目指すものですが、完成してしまったら、そこでもう生きていく意味がなくなってしまいます。欠けていることこそが、人類にとって大いなる祝福なのです』……なんて」

「そっか。きっと、そうなんだろうな」

「その話を聞いたのは十歳のときで、当時はその意味がよくわかっていませんでした。わたしはむしろ、一人で完成した存在になりたいと思っていたくらいです。

 けど、今は違います。レイリスと別々の存在で、どうしても満たされることのない部分があるからこそ……こうして側にいられることに、幸せを感じています」

「……うん」

「レイリスが好きです。そして、レイリスが好きだと思えることが、とても愛おしいです」

「……うん」

「満たされていないということは、幸せなことなのですね。

 ただ……満たされない部分があるとしても、もっと満たされたいとは思っています。……レイリスも、そろそろわたしと一つになりませんか?」

「……その気持ちは、すごくあるんだけどな」


 姿勢を変えて、トーチカと抱き合う。

 その頭を胸元にぐっと抱き寄せつつ、両腕で小さな体を包み込む。

 服越しでもわかる肌の柔らかさと温もり。その熱で、心の深くまで温められていく。


「俺としては、今の時間がとても愛おしいから、もう少しだけ今の関係を楽しみたい、かな。一度通り過ぎてしまったら、もう味わうことのできない感情だから、手放すのも惜しい」

「……わからないでは、ないですよ。はぁ……。今日もダメですか」

「悪い」

「ま、いいです。これはこれで、幸せです」

「うん」

「じゃあ、約束通り、たくさんキスをしてください」

「……わかった」


 トーチカを解放する。直後、トーチカが俺の上に乗っかってきた。軽い体と、ほんのり柔らかな胸部が俺に押しつけられる。


「今夜は、少しだけ激しくしてもいいですか?」

「俺に断る余地があるのか?」

「もちろんありません」

「だろーね」


 トーチカが唇を重ねてくる。普段は唇を触れ合わせるだけのキスから始まるのだが、今回は最初から舌を絡めてくる。

 押されてしまうのが妙に悔しいので、俺も応戦。

 何を競い合っているのかわからないが、いつになく激しいキスを繰り広げることになった。

 劣情と共に、闘争心まで駆り立てられるキス。

 明日にはまた出立しようと話していたのに、今夜は寝不足になりそうだった。

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