第22話 川上合戦(五) 親心

「石見ではないか! そなた無事であったか⁉」

「はぐれてしまい申し訳ございませぬ。さあ、早くお立ち退きを! この石見が御供つかまつる!」


 宮原口の東にて、多数の龍造寺勢に出くわし、長良は窮地に陥る。

 それを救ったのは、石見守と彼に従う数十の兵達だった。後方からやってきた彼等は、長良の周囲にいた敵兵を掃討すると、敵の前に立ちはだかったのである。



※ ※ ※ 



「よし、皆の者、このまま長良様をお守りしつつ退くぞ!」


 石見守の下知は場の雰囲気を変えた。

 従っていた兵達はそれに応え、すぐに長良の周囲を固めると、敵との間合いを測りながら後ずさってゆく。

 退き戦は至難の業だ。なので異を唱えたり、脱走する兵がいても不思議ではないのだが、石見に従う兵達は違った。皆動じることなく、ただ下知を忠実に遂行してゆく。

 

 その主従の結束に、長良は頼もしさを覚え、ようやく槍を下げた。

 だが、窮地を救ってもらったとは言え、一時凌ぎ。再び包囲されてしまう前に急ぐべきだろう。

 決意した彼は再び槍を構えると、石見守の先導の下、宮原口の後方に置かれた陣を目指し駆け出して行く。


 ところがその進路にて、石見守は急に馬を止めてしまった。



「馬鹿な! き、貴様、生きておったのか!」


 石見守は平静を失っていた。

 彼の眼前には、見覚えがある、黒い鉢巻きをした偉丈夫が待ち構えていたのだ。

 その額は斬られ出血し、巻かれていた黒の鉢巻きは目元までずれ落ちている。

 甲冑のあちこちは叩かれ、斬られたため、凹みが見て取れる。

 加えておびただしい返り血も。それらの痕跡は、彼が幾度となく己の武のみで、乱戦の中を生き延びてきたことを物語っていた。


 だが、これまで何事も無かったかの様に、偉丈夫はふんぞり返ると石見守を睨みつける。

 恐るべし鋼の肉体──

 石見守は後悔の念を抱くしかなかった。討ち取るのは容易い、奴は猪だと、かつて侮っていたことを。そして、神代先陣の兵達に重畳され、あえなく犬死を遂げたはずだと、決め付けていたことを。

 


「見つけたぞ、先陣の将! この広橋一遊軒を弄んだ報い、その首で償ってもらう!」


 一遊軒はそう吠えると、石見守目指し押し寄せて来る。

 すぐに石見守の郎党が立ちはだかるが、その壁を彼は難なく打ち崩していった。

 何せ神代先陣の兵数百に取り囲まれた中でも、平然と生き残ったのだ。僅か十数人の石見守の郎党に押し留められるはずがなかった。


「下郎が、良くも我らの兵達を……!」

「向かってはなりませぬ、殿!」


 あぶみを叩き、石見守は一遊軒に斬りかかろうとする。

 だが、槍を構えようと右腕を不用意に動かしたところ、すぐに彼はうずくまってしまった。慌てて左手で右肩を庇うものの、顔には苦悶の色がはっきりと浮かぶ。

 その有様に、彼の家臣達が駆け寄らないはずがない。手負いの石見守に、これ以上の武働きを強いるのは無理だと、誰の目にも映っていた。


 その間にも一遊軒は包囲を崩し迫って来る。

 何者にもひるまない、寄せ付けないその無双の姿は、戦場の鬼の如し。

 このままでは先へ進めない。石見守の顔に焦りが見えてきた、その時だった。


「何をしておるか、石見! 雑魚に構うな、早う退け!」

「と、利元様!」


 石見守と一遊軒の間に突如割って入ってきたのは、利元率いる一隊だった。

 彼は一遊軒の横を突き、早駆けにてその体勢崩してゆく。

 そして馬を返し一遊軒に相対すると、槍を突きつけて、薄ら笑いを浮かべて見せた。

 相手をしてやるから掛かって来い──

 安い挑発である。だが効果はてき面だった。


「邪魔をするな! 死にたいのか、貴様!」


 怒髪天を突く勢いで利元に迫ってゆく一遊軒。

 それを見て利元は、長良と石見守に向き直り、笑みを零して頷いて見せた。

 上手く誘き寄せられた。ここは任せよと。


 意を察した長良と石見守は、そこでようやく馬を進め始めた。

 当主の兄である者が、一命を賭けて退路を拓いてくれたのだ。

 自分は老い先短い身、ならば次期当主たる長良の盾になってやろう。

 おそらく利元はそう決断したのだろうが、長良は彼の身を案じずにはいられない。


 しかし、彼が振り返る事はなかった。

 両者の距離は遠のき、次第に互いの姿は小さくなってゆく。

 背後から聞こえて来る喊声に、後ろ髪をひかれる思いを抱えつつも、長良はその場を後にするのだった。


 神代家を支えた勝利の異母兄、周防守利元。

 彼が宮原口にて討死を遂げたと長良が知ったのは、戦後になってからだった。



※ ※ ※ 



 北へ、宮原口の奥へ。

 長良と石見守は僅か十数人の供を従えて駆ける。


 勝利のいた本陣とは別に、長良は宮原口の奥に小さな陣をこしらえていた。

 そこには僅かだが味方が残っている。また山内に退く事になっても、陣まで戻っていれば早々と向かえるだろう。

 そんな思惑を抱きながら、やがて陣を遠目で確認できる所まで近づいてゆく。

 だが、彼らはそこで再び馬を止めるしかなかった。


「なっ、ここにもすでに龍造寺の兵が…!」


 長良は固まっていた。

 陣の手前から押し寄せて来る兵達の得物の切先が、長良に向けられていたのだ。


 長良を護っていた兵達が、慌てて立ち向かってゆく。

 だが、その顔は曇り、戦意が感じられない。

 迫り来る龍造寺勢の後方に見えたのは、散乱した複数の亡骸。そして、踏みつけられ、泥にまみれた旗差や陣幕があった。

 陣は奪われ、すでに破壊されてしまっていたのである。


「長良様、こうなっては、このまま山内に退く以外ございません!」

「…………」

 

 声を荒げて促す石見守。

 そして長良を庇うべく、敵の眼前に立ちはだかった。

 だが、長良は馬を進めようとしない。それどころか、表情を曇らせ、手にしていた槍を下ろしてしまった。

 一刻を争う事態なのに──

 焦れた石見守は振り向くと、思わず声を大にして尋ねる。


「如何なされた⁉」  

「一生の不覚であった。もう助かるまい」

「何を仰せか! 希望を捨てるにはまだ早うござる!」

「この有様のどこに希望があるのだ!」


 長良も負けじと声を荒げると、三方をぐるりと指差して回る。

 そこには、西側を除き、続々と押し寄せる龍造寺勢の姿があった。

 長良達の周囲に限った話では無い。もはやそれは、宮原口全体を飲み込まんとする程に膨れ上がっていたのだ。


「壊滅は免れまい。わしの意地だ。わしのつまらぬ意地のせいで、多くの兵を失ってしまったのだ……」

「省みるのは後でも出来る! 今は一刻も早く山内へ退くべきでございます!」

「冗談を申すな。退いたとしても、どの面下げて、父上に会えと言うのだ」

「長良様!」


 自虐に誘われるがまま、長良は馬を進め始める。

 向かった先は、退路から外れた雑木林の中。そこにあった一本の榎を見つけ、彼はふらつきながら近づいてゆく。


 枝葉が良く生い茂り、木陰で憩いの一時を過ごすには、持って来いの大樹である。

 逆境の最大の慰めは、思いやりの心に出会うこと。

 枝葉の穏やかな騒めきと、優しく差し込む木漏れ日は、長良を思いやり誘っていた。もう、ここで楽になっても良いではないかと。


 長良は下馬すると、その幹に手を伸ばし微笑む。

 そして、根元に片膝を立て腰を下ろした。

 太刀を抜き、柄頭を地に、白刃を上へ。

 喉元に触れる切先。後は体重をかけて覆い被さるだけだった。

 

 それに石見守が気付かないはずがない。

 咄嗟に下馬すると駆け出してゆく。

 満足に歩けない脚で、引きずりながら懸命に。

 それだけはさせてはならぬ──


 彼は無我夢中で一喝すると、すんでのところで長良を横から押し倒していた。


「このっ、大たわけがっ!」

「がはっ‼」


 長良の手から太刀が零れ落ちる。

 それでも彼は諦めようとしない。上体を起こし、見失った太刀の在りかを懸命に探そうとする。


 だが、その執着を、石見守が覆い被さって阻もうとする。

 すぐに二人は揉み合いへ。やがて、咽喉輪(喉を守る甲冑の一部)を掴まれ、眼前に手繰り寄せられると、長良はその動きを止めてしまった。


 彼は思わず見入っていた。

 家中で共に在ること二十数年。初めて見せた、目を真っ赤にして叱る石見守の姿に。


「貴方は次代を担う方。山内の未来が掛かっているのだ! その命は貴方だけのものではない。何故それを理解なされないのだ!」

「し、しかし──」

「あれをとくとご覧なされ!」


 石見守の指は北を向いていた。

 そこに見えてきたのは、木竜木瓜、神代家の家紋が印された、幾つもの旗差物。それを背にした兵達が、怒涛の如く押し寄せる姿があった。

 

 やがて中から、家紋が印された一際大きな旗差と馬印が迫って来る。

 その先頭に立って馬を走らせる将は、長良が待ち望んでいた者。神代勢の最後の希望と言える存在だった。


 はっとした長良の瞳に生気が蘇ってゆく。

 よろめきながら彼は体を起こすと、四つん這いの姿勢のまま、思わず呼び掛けていた。

 

「ち、父上……!」


 長良の眼前、勝利は猛然と龍造寺勢に突き進む。

 そして、自ら太刀を振るい敵に当たると、窮地の兵達を救い、その退路を切り拓いてゆく。

 加えて彼に従っているのは、これまで本陣で待機していた鋭気十分の兵達である。長良の周囲にいた敵の小勢くらい、押し返すのは造作もなかった。


「父上、父上っ!」


 長良はおもむろに立ち上がると、再び呼びかける。

 たが、勝利は振り向かない。敵味方入り混じる中を更に進んでゆく。


 やがて長良を追い抜き、迫る敵の密集地帯の前へ。

 そこで勝利はようやく馬を止めると、付き従っていた兵達に向け、太刀を振り上げた。


 応じて兵達が勝利の両脇へと展開してゆく。

 その下知ははっきりと聞こえない。

 しかし、勝利の心の内を理解し、長良は立ち尽くしていた。

 龍造寺の大軍勢をここで真っ向から迎え撃つ。

 そして護り切って見せると。

 

 勝利は息子の盾となるべく、自ら宮原口の最前線まで突出してきたのだ。


「御理解なされたか! 殿は己の命より、長良様が大事と判断なされたのだ! 貴方はそれに報いるため、必ず生きて帰らねばならんのです!」


 長良の背後で石見守が諭す。

 その懸命な訴えに長良はしばし俯いていたが、やがて申し訳なさそうにちらりと彼に視線を送った。


 石見守はその意を察し頷く。

 そして、僅かな自身の側近と郎党に長良の警護を命じ、傍に侍らせたのだった。


「さあ、一刻も早くお立ち退きを。ここはそれがしが防ぎますゆえ」

「しかし、そなたは手負いではないか」

「ご案じ召さるな。先陣を務めた者の武勇、今一度佐嘉の弱兵に見せつけて、必ず帰参致しましょうぞ!」


 相好を崩す石見守。

 それを見て長良は意を決した。

 彼は再び愛馬に跨ると、ひと際大きな声で呼びかけ、その場を後にしたのだった。


「熊の川城(神代本拠)で待っておる。必ず戻ってくるのだぞ、石見!」



※ ※ ※ 



 出来る事はすべてやり尽くした。


 長良が去った後、石見守は妙な安堵感に包まれていた。

 敵勢の攻勢は止むことがない。いくら勝利が奮戦を続けたとしても、どれだけ持ち堪えられるか、分からないのに。


 あとは勝利本人が生き延びてくれればいい。そのための盾となろう。

 意を決した彼は、付き従っていた一族郎党たちを再び集結させた。


 開戦時から共に修羅場をくぐり抜け、生き残ったのは数人のみ。

 石見守は共に戦ってくれた事に謝意を伝えると、必ず生き延び、山内にて再び相見えようと、手短に檄を飛ばす。

 さらに──


に、そなたに頼みがある」


 斬り込もうとした矢先、一人の家臣に石見守は近寄ると、懐紙を畳んで作られた紙入れを、そっと懐から取り出して手渡す。そして、その中身について言付けた。


 家臣は理解した。「最後」にと。

 そして知る由もなかった。石見守の想いが「最期」だったことを。

 

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