第2話 虚々実々
さて、多布施の毒殺未遂事件から、一か月後のこと。
隆信の姿は、本拠のある佐嘉郡ではなく、東に隣接する神埼郡にあった。
(信じられん……)
そびえ立つ猿ヶ岳を仰ぎ見て、彼は立ち尽くしていた。
視線の先にあったのは、山頂付近でうろついている兵士達の姿。
いるはずがないと思っていたのに、陣をこしらえていたのである。
「兄上、包囲に向け、味方の諸勢は、滞りなく動き出しました」
そこへ声を張り上げ、沈黙を破って来る者が一人。九歳年下の弟、長信であった。
天文二十四年(1555)三月、隆信は軍勢を率い、仇敵である少弐家の本拠、勢福寺城に侵攻。長信を通じて一族家臣達に対し、包囲のため持ち場に向かう様、指示していた。
長信は隆信の右腕ともいえる存在である。
領地経営や
その性格は隆信と違い温厚篤実。ゆえに顔つきも穏やかなのだが、この時は違った。やって来た彼の顔は熱を帯び、自信をみなぎらせていたのだ。
「やはり冬尚はここにはおらず、東の
「ほう、そうか」
「ここまで道中の敵を蹴散らし、包囲も順調。もはや城は落ちたも同然にございます。いやあ、いつもこれ程楽な戦ばかりだと、良いのですが」
「そうかそうか。ならば、あの山にいる軍勢も、そなたの想定内と言う訳だな」
「えっ…… ええっ⁉」
隆信が猿ヶ岳の方向を指差すと、目をこらした長信から、驚きの声が上がる。
そして再び隆信に向き直ると、彼はそのまま固まってしまった。目を丸くし、口をあんぐり開けたままで。
見事なまでに間の抜けた顔。それにいら立ちを覚えた隆信は、「ふん!」と鼻息を鳴らし、地団駄を一つ踏みつけると、本陣へと引き返していった。
猿ヶ岳にひるがえっていた軍旗には、立竜
龍造寺が軍を発し、勢福寺城へ攻め込もうとしている。
龍造寺家に潜り込ませていた元家臣、
※ ※ ※
油断ならぬ男、神代勝利──
隆信の脳裏にそう刻まれたのは、この一件だけではない。
神代家と和睦してから、先の毒殺未遂事件が起きるまで約一年半の間にも、彼は煮え湯を飲まされ続けていたのだ。
両家の間では一応、交渉や交流があった。
例えば、謀反を企んだ家臣が、山内に逃亡するという事件が起きた際、隆信は「討ち果たすか、捕縛するかしてほしい」と、勝利に協力を依頼。
勝利はこれに応じ、一族家臣を派遣して謀反人を捕縛すると、龍造寺に引き渡している。
また隆信の弟、信周が元服する際、依頼を受けた勝利は、その儀式で
そして自らの前名である、新次郎を信周に与えると、祝いとして、佐嘉城近くの
だがこの振る舞いが、両家に亀裂を生まない訳がない。
そもそも大財、愛敬島共に、龍造寺の領地なのだ。それを勝利は、龍造寺家の御家騒動に付け込んで
加えて天文二十二年(1553)に発覚した事件が、隆信を驚かせた。
従っていた佐嘉の地侍、
鹿江氏は龍造寺にとって、ただの地侍ではない。
長年に渡り苦労を共にし、信頼を置いていた有力な一族であった。
事実、御家騒動にて筑後から佐嘉へ帰郷する際、隆信は鹿江勢の舟に乗り、その所領、鹿江崎に入港している。再興の足掛かりとしてまず頼ったのが、鹿江氏であったのだ。
そんな重要な一族に、勝利は触手を伸ばしてきた。
鹿江だけではない。それは神代に味方すれば厚遇するぞと、龍造寺に従う他の地侍達に対してのアピールでもある。勝利は彼等の切り崩しを、堂々と表立って行っていたのだった。
※ ※ ※
「神代勢の動向から目を離すな。小さな事でもいい。何かあったら報告に来い」
隆信が一族家臣達にそう命じた翌日。
早速報せを持って本陣にやって来たのは、長信と宿老の一人、小河信安であった。
「殿、どうやら物見によると、猿ヶ岳には人の気配があまりうかがえない様子」
「兄上、山内に潜ませた間者からも、ここにやってきた神代勢は少数との報せが届いております」
信安に続き、そう告げた長信は、届けられた密書を差し出す。
思うに、急いで駆けつけたため、勝利は少数しか率いて来られなかったのではないか。
そう推測する二人の話を聞いて、隆信は頬を緩めた。
「ふん。多数なら頭を悩ますところだったが、やはりそうか!」
『やはり……?』
思わず信安と長信の声が重なる。
それを見て隆信は更に頬を緩め、得意気に告げた。
「二人の推察は一理ある。だがそれだけではない。今、奴はまともに大勢を動かせぬ理由があるのだ」
「ほう、それはどの様な?」
信安がすかさず尋ねる。
しかし、難しい顔をしている彼に気にする事無く、隆信は立ち上がり宣言した。
「いずれ分かる。よし、城を攻めるぞ! 長信、全軍にそう知らせて参れ!」
「は、はいっ!」
※ ※ ※
隆信の号令一下、すぐに城攻めは始まった。
神代勢に対しては、小河信安と鍋島清正に一軍を与えて抑えとする。そして残りの軍勢をもって、一気に落としに掛かったのである。
勢福寺城は、名家少弐の本拠にふさわしい、広大な城館を持ち、背振の山々を背後に控えた、攻めるのが難しい城であった。
しかしそれは、他家にとっては、である。
龍造寺は、隆信の先代、
龍造寺宿老、福地信重は城の南大手を攻めていたが、途中で城の急所である東側に回り込み、水路を辿って登頂。城内に入ると、火を放って回ったのである。
城内はたちまち大混乱に陥った。
立ち昇る白煙を見て、裏切者が出たと思い込み、逃げ出す者。
城の高みに現れた龍造寺の軍旗を見て、城山が落ちたと勘違いして逃げ出す者。
やがて城門が突破されると、なだれ込む龍造寺の大軍を前に、残っていた少数の城兵は、散り散りになっていった。
結果、わずか一日で城は陥落。
龍造寺にとって大きな戦果であった。東肥前に影響力を持つ、少弐家の本拠を手中に収めた事で、一族の仇を取り、周辺国衆達から頭一つ抜きん出た存在となったのだ。
一方勝利は、城兵のあまりのもろさに唖然とするしかない。
だが、城までの道を封じられては成す術がなく、もはや残された選択肢は、その日の内に陣を払い、山内へと帰る事だけだったのだ。
※ ※ ※
ところが、大戦果を挙げたにもかかわらず、城に帰って来た隆信の顔に笑みは無かった。
「奴を討ち取る良い策は無いか?」
戦後、彼はすぐに重臣達と評議を開いていた。
戦勝を収めたものの、勝利を逃がしてしまったのは、無念の極み。奴は今後も我らの障害となるだろう。その危機感は、彼の頭に残り続けたままだったのだ。
すると問いかけに応じ、名乗りを上げたのは信安だった。
「確かに勝利は、油断出来ぬ者にござるが、この信安も劣るものではござらん。直ちに一軍を率い、奴の首を挙げて参りましょう」
皆の前で彼は意気揚々と豪語する。
大きく出たと思われるかもしれないが、決して彼はほら吹きではない。
若年から数多の戦場に赴き、武功を重ねて来た、龍造寺一の剛の者。その働きは、龍造寺家中の誰もが認めるところなのだ。
だが、勝利憎しである隆信の返事は、意外にも素っ気なかった。
「軍を動かすのは止めておけ。おそらく我らの行動は筒抜けだ」
「何と⁉」
「多布施の宴といい、先日の戦といい、奴等の対応は的確過ぎる。おそらく家臣の中に、勝利と通じている者がいるのだろう」
「しかし勝利は今、山内ではなく、麓の
「不意打ちを警戒しない勝利ではあるまい。良策なければ、暫くはにらみ合いだ。いずれ奴等と戦になるだろう。その時に、そなたの意気と武勇は、頼りにしているぞ」
そう言って隆信は
主にそこまで言われては、口をつぐむしかない信安だったが、心の中は別。一つの思惑が芽生えつつあった。
(軍を動かさなければ良いのであろう。ならば……)
※ ※ ※
一方、数日後の千布館。
勝利が猿ヶ岳に多勢を率いて行けなかった、その原因が、
「御検分を」
側にいた腹臣、石見守が勝利に促すと、続けて家臣達が桶のかぶせ蓋を取り、中身を披露する。
姿を現したのは、化粧が施された数個の生首。
見た瞬間、勝利はすぐに憮然となり、しばらく睨みつけたままでいた。
この年、山内の豪族の一つ、
勝利は、山内二十六全ての豪族の支持を受け、就任した盟主である。
他の大名や国衆とは違い、在地の者達によって選ばれた首長であるため、主従の結束は固く、治政二十年以上を経ても、領内にほころびが生じる事は無かった。
それが、この年になって突然崩れた。
謀反の詳細は闇の中である。だが、嘉村一族は山内でも小規模の豪族で、領地は山内奥地に在る。勝利に不満があったとしても、単独で謀反を起こすのは無謀と言うもの。龍造寺が背後で糸を引いているのは、誰の目にも明らかだった。
やがて首実験が終わり、おごそかな雰囲気のまま、首桶と共に、数人の家臣達も引き下がってゆく。
そして勝利と二人きりになった途端、石見守から大きな溜息が一つこぼれる。
それを見た勝利は、彼をなぐさめる様に、穏やかに告げるのだった。
「石見、気にするな。酒だ」
「えっ?」
「宴を開こうではないか。討伐に赴いた者達を労うためにな」
※ ※ ※
夜の
その中でそよぐ夜風は、月明りと合わさり、空を見上げた者達の心に平静をもたらしてゆく。
だが、その日の千布館の広間は、平静とはおよそ無縁であった。
催された宴は終始盛り上がり、そろそろお開きかと、皆が思い始めた頃には、すでに日を
するとそこに、一人の女中が血相を変え駆け込んできた。
「ゆ、湯殿に、鎧を身に付けた大の男が潜んでおります!」
「何ぃ?」
その場にいた者達は、たちまち
そして近習の一人が立ち上がり、様子を見に行って参りますと告げるが、勝利はそれを制した。
「待て、それは小河であろう」
「はっ?」
「龍造寺一の剛の者、小河信安だ。この様な大胆な振る舞いができるのは、奴しかおるまい。そなた湯殿に行ったら、勝利は酒宴の最中である。信安殿もここに来て呑まれるがいい、と誘って参れ」
狐につままれた様子の皆に、自信満々の勝利。
その場が妙な緊張感に包まれていると、しばらくして湯殿に向かった近習が、やはり一人の武者を連れて来た。
武者の髪や髭には、白いものが混じり、目じりには、多くのしわが刻まれている。
そして周囲を警戒する険しい眼差しと、落ち着き払った仕草から、幾度となく危機を乗り越えて来た、歴戦の老将の風格がうかがえた。
神代家臣達に囲まれる中、武者は
それを見て、勝利はニンマリすると声を張った。
「わざわざ深夜の御来訪、大儀でござった! まずは名乗っていただこうか!」
張り詰めた雰囲気に一変した広間。
その中で武者は一礼する事無く、ただ勝利を睨みつけて応えるのだった。
「お招きに預かり光栄でござる! 龍造寺家宿老、小河筑後守信安と申す!」
※1 戦場の後方にいて、作戦に必要な人員・兵器・食糧などの輸送・補給にあたる任務、およびその機関
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