待宵月の茨姫
雨海月子
『雨の海の町』の少女達
大抵のものは可逆性を持つようになった世界でも、不可逆なものはいくつかある。例えば、死。例えば、欠損と呼ばれるほどの大怪我。そしてもう一つ。
私達が肌に施したタトゥーは、消えることを禁じられて残り続けている。
「ねぇユーリィ、今度の新デザインのニュースビーム見た?」
そう話しかけてきたのは私の友人、マリだ。ひらひらと振っている右手の甲には、三本足の鴉のタトゥーがある。
「うん、見たよ。マリが好きそうなの多いなーって思ってた。私はあの、3085の波パターンがいいな」
「その通り!どうしたものかもう迷いっぱなしなの」
他愛のない話をする私の右手の甲には、古代のシンプルな線文字のタトゥー。大昔の人は、この文字自体に特別な魔除けの力があると信じていた……って、歴史の授業で習ったっけ。
昔々は、肌に消えないタトゥーを刻むのはよい顔をされなかったらしい。アングッドなハズレモノか、あるいは犯罪者の刑罰だった、と地球史で習った。今は違う。今は6歳になれば自分の大本の民族を表すしるしを手の甲に彫り込むし、新年になる度に模様を付け足していくのは正常な月の民の義務だった。今の技術では痛みはないし、一瞬で終わる。義務、と言うほど堅苦しいものではなく、実際にはちょっとしたお祭りのようなもので、これを拒絶する月の民はいない。皆、楽しみなのだ。
衣服は決まったものを支給されているし、この『雨の海の町』のドームの外に出る時には分厚いスーツの着用が義務付けられている。教科書にあるような細かな装飾品は、月の環境に合わなかったらしく廃れてしまった。それでなのか、『装い』という文化を楽しもうとした時、肌に刻む、という形になったらしい。元々は市民識別のために入れられたそれは、住民の需要と街の供給によって、今のタトゥー文化を作り上げていた。年に一度、肌の上に伸び広がっていく自分達の証。貴重な『自分らしさ』を表す機会を、みんな楽しみにしている。
「今度はどこに入れる?」
「んー、今度は腕とかどうかな。そろそろ手の甲はどちらもいっぱいになってきたし」
「私、今年の模様でちょっと思いついたのあって、顔かな」
タトゥーにはその人の人生と生まれが見える。毎年発表されるパターンから何を選ぶか、そして最初の民族紋様が何か。宇宙に進出するようになっても、『地球から伸びる臍の緒を切ることはできない』のだ。マリは日本、私は北欧という地域にルーツがあることをこの紋は示している。顔のかたちはそれほど違いがないように見えるけれど、元は違う国の者たちが今はこのドームで仲良く暮らしている、そういうものを示しているらしい。
『地球から伸びる臍の緒』というのは、ニュースビームや老人たちのいう古めかしい言い回しだ。臍の緒というものを見たことのある月市民は、出生センターの職員くらいだろう。昔と違って、今は人間の女性のお腹で子を育てない。だから私も見たことがないのだけれど、きっと華やかで何本も絡まった、リボンのようなものに違いない。
「この時期になると、お試し用の簡易タトゥーも出回るから賑やかだよね。実際、一度彫ったら取り返しがつかないんだし、その前に試してみて自分の身体に合うのか試したいもんね」
「私、昔に選んだ音符パターンがここ最近の模様とすっごく合わなくて。でももうあと10年もしたらいい思い出になるよって、行きつけのお店のご主人に言われちゃった」
二人で軽食処に入り、簡単な飲み物を頼んで飲みながら二人で話していた。アンドロイドの店員には刻むタトゥーもないのだけれど、その空白の手は人間そっくりに作られた彼らが人間ではないことを一番に示していた。だって、彼らには刻むべき民族紋様がない。アンドロイドという種は地球で生まれても、彼らの臍の緒は地球にない。町はずれの工場だ。
『ご一緒にお食事はいかがですか?』
「じゃあ、このAセット」
「私はBセットで」
『かしこまりました』
丁寧に一礼した給仕用アンドロイドが同じ顔の同僚に注文を伝えに行くのを見ながら、マリは「ねえ、聞いたことある?」と声を潜めた。
「なあに?」
周囲をきょろりと見渡して、マリは一段と聞かれないよう小さな声で言った。
「……大昔の、タトゥーを消す手段を、まだ残しているところがあるんだって。勿論、《月宮殿》にバレたら処罰対象だけど、そういうのがこの世にはあるんだって。『雨の海の町』のドームじゃなくて、他のドームらしいけど。こっそりタトゥーを変えたい人が、クレジットを持ってこっそり行くんだって」
タトゥーを消す。そんな秘密を告げられて、私は目をぱちくりとさせた。自分の歩んできた歴史の一部を、消す。消したい人がいると思って見たこともなかったし、消せると思っていなかった。
だって、タトゥーは毎年増えていくもので、減るものではない。土星ケーキが生地を段々重ねていって作られるように、体に刻まれる紋様も毎年増えていって、何の模様を選びそれをどう思っているかも、消えることのない自分の痕跡だ。
「え、でもそうやって消した人、見たことないよ?」
「毎年のパターンはいつも、図書館の記録に残っているでしょう? それを使って、空いた部分に新しいのを入れるんだって……ああ、そうだ。ほら、『賢者の海の町』のドーム。あそこには、古い技を遺してるアンドロイドとかもいるから、きっとそうなんじゃないかな」
つまり、新しいその年のタトゥーを刻み直して、昔のあやまちのようなものを消すらしい。私の七歳時に選んだ音符パターンは今の趣味に合わないけれど、あの時は一番これがいいと思って選んだ、はずだ。そういうものを消して、今の自分に都合のいいもの、今の自分にとって理想的な自分の姿を維持し続ける、ということらしい。
タトゥーを消すというのは、そういう過去の思い出や、昔の私を消すということになるんだろうか。自分の一部を消す。消す人は、何を考えていたんだろうか。消して、後悔はしなかったんだろうか。昔はタトゥーを消す技術があったようだけれど、稚拙なもので、「そこにあった」痕跡までは消せなかったらしい。それは、昔のタトゥーに罰の意味合いが強かったからだという声を思い出した。もう老齢の、歴史の先生の声だった。
「ま、ユーリィはないと思うけどね。いつもいつも、物を捨てるのだって下手なんだから。たとえその音符パターンが気に食わなくたって、消したいとは思ってなかったでしょう?」
「だって、どれもとっておきたかったし……」
「幼年学校からそのまんまなの? 『残したがりのユーリィ』は」
「うん……」
みんなのように物を捨てるのが下手だ。後で同じものが手に入るからと言っても、一度手にしたものを捨てる決断が中々つけられない。それでいつも、寮の部屋はごちゃごちゃとしていて、気づいたら『残したがりのユーリィ』のあだ名は学校中に広まっていた。寮を出た今も、部屋は雑然としている。
もう、当時同室だったマリにそう呼ばれてから、十年以上経った。マリはあの頃の思い出は遺していても、当時の物はきっとほとんど捨ててしまっている。私は遺している。捨てられない。タトゥーのように消してはいけないからではなく、私の意思で遺しているものだ。
月は地球の重力の六分の一、だという。地球なんて行ったことないけれど、そういうものらしい。だからみんな身軽で、何処へでも行ける。それはすべての月都市の標語だ。私もそうだと信じてきていた。
けれど、私は皆ほど身軽にはなれそうにない。
***
暦が新しい年に切り替わるこの日、私の手には新しく刻んでもらった波パターンのタトゥーがあった。毎年毎年、この日にタトゥーを刻むのは、自分を確かめるためだ。私が誰かを確認するための行為。
「今年も、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね、ユーリィ」
今年も、地球から伸びる臍の緒を切ることはできない。今年六歳になる子供にも、それぞれの民族紋様を刻むのだろう。マリと新年のあいさつをして、昔の職人を模ったというアンドロイドのブランクの手が私の腕に模様を刻んでいった。
楽しい気分と年に一度だけ弱められた人工重力の中で、跳ねるように二人で街を歩く。そうすれば、同じように色々と刻んだ人達が綺麗な手を振ってくれて、私も楽しくなった。
「うーん、去年のこの紋様、今年のと似ちゃった気がするな」
「そう? どっちも素敵だと思うけれど」
「だってどっちもくるんとしちゃったな~って」
「いいじゃない、そういうのも『自分らしさ』になるんじゃない?」
―――語る少女達。
「見てくれよ、毎年モテそうな紋様を選んでるんだ! そしたら随分と刺々したのが増えちまった」
「本当にどの紋様もどこかにトゲがあるな、そんなにモテるのか?」
「効果はビミョー。でも、楽しい!」
「そんなもんでいいのかもな、毎年のタトゥーなんて」
―――模様を見せびらかす青年達。
「ほら見て! 僕もみんなと同じ星の模様を入れてもらったんだ!」
「もう六歳だもんな、刺青を許されたから、今日はお祝いだ!」
「三人の配給切符を合わせて、おいしいものを食べに行きましょうね」
―――刺青を許された子供とその両親。
「アイスクリーム食べようよ、マリ! 今日はお祭りだから、いつもより色んなのが出ているはず!」
「去年それで虹色のアイスクリーム買って大失敗してなかった? 思ってたのと全然違ったー!って!」
「そ、それは去年の話だって! 今年はほら、あのピンクと紫の奴はおいしそうなんだし!」
私とマリもすぐに、お祭り騒ぎに加わった。ほどの音と光の洪水の中を、蛍光色に瞬くウサギや、ARの看板がよぎっては消える。祝日は条例もいつもより緩いから、いつもだったら大人しくしているような拡張広告は動き出して踊っているし、街行く人々の顔も明るい。タトゥーの色をいじっているのか、虹色に光る肌の人が私たちの前でアイスクリームを買っていった。
「んー……」
「やっぱり普通のこっちにしたらよかったんじゃない?」
「予想していたほどではなかったというか……味の組み合わせかな、きっと他の色同士の組み合わせならおいしいはず」
「ユーリィったら、毎年そう言ってる気がする。ほら、あっちのお団子にしようよ、毎年おいしいやつ」
透明なドームの向こうに、先祖が後にしてきた青い星を掲げる。雨の降ることがない『雨の海の町』で、今日の私達はウサギのように跳ねていた。
待宵月の茨姫 雨海月子 @tsukiko_amami
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