1-10 愛情って?




「因果応報の話に常識があるんですか」

「えーと、良心の呵責というか……」

 寂れた図書館の片隅で、リョウたちはひそひそと問答を繰り広げていた。

「理解できません。自己の承認欲求、言ってしまえば、自己満足を良心の呵責に分類するのはあまりにも傲慢です。飢えているわけでもないのに不用意に狩りの仕掛けを荒らす狐が人間に撃たれる。極悪人ながら自分が極楽浄土に行けると思い込んでいる人間が罪人に罵倒を吐き地獄に堕ちていく。先程も申し上げましたが、これらの話は全て因果応報です。」

「んーと、じゃあ登場人物が悪いことしているのは理解できてるんだね。じゃあ、それが常識だよ」

 理解不能だという言葉が込められているのが何となく分かる目でじっとリョウを見つめた少年は、窮屈な子ども用椅子から立ち上がると、目の前に積み上げられていた何冊もの絵本を抱えた。

「あ、まだ全部読んでないのに」

「貴方に図書館で読み聞かせをされるより、普段通りの学習方法のほうが余程効率的です」

 長い脚を折りたたんで、子どもの身長に合わせてある背の低い書架に全ての絵本を元の位置へと戻した少年は、児童書スペースから出ていく。

 リョウも椅子から立ち上がると、小走りで少年を追う。

「普段通りって、どんなことしてるの」

 どうにか隣に並んだリョウが息を弾ませながら尋ねてくる様子を一瞥した少年は、暫く黙って歩いていた。だが、五歩ほど進んだところでピタリと停止する。

「……自宅に招待します。また質問を重ねられるよりは、合理的です」

 自動扉をくぐり、図書館を後にしたリョウたちは、この前よりは大人しい気温の夏の街を移動する。そして歩いて十分もしないうちに辿り着いたのは、天を衝きそうな高層マンションだった。

 エレベーターという鉄の箱でほぼ最上階に近い階層まで運ばれたリョウたちは、タツミ邸よりも広い部屋に入る。

「ここがエリヤの家? すごいなぁ」

 モデルルームのように清潔で、生活感のない部屋。そんな部屋での暮らしとは縁のないリョウが勧められたソファにそわそわしながら座っているのも気に留めず、少年は壁を撫でた。

 すると、センサーが反応し、部屋のカーテンが全て閉じられ、黒革のボックスソファの前に巨大なスクリーンが下ろされる。

「何観るの?」

 スクリーンに映された映画作品専門のサブスクリプションチャンネル。そのホーム画面で、薄っぺらなリモコンの操作によって選択されたのは、題名ぐらいなら大抵の人が知っているだろう邦画だった。

「これ、ちゃんと観るの初めてかも。エリヤも、初めて?」

「……二回目です。しかし、理解できなかったので」

 理解って? とリョウが質問を重ねる前に、スクリーンに白黒の映像が流れ、迫力のあるサウンドが部屋を支配する。

 踏みつぶされる大地、破壊される人工物。そして、燃え上がる東京の街と悲鳴を上げながら逃げ惑う人々。百年以上時を経てもなお人気の名作は、リョウが言葉を紡ぐのさえ忘れるぐらいの魅力があった。

「……愛とは、なんでしょう」

 物語の中盤。話の転換点となる、愛を誓った男性にある秘密を告白する女性のシーンを眺めながら、少年は呟く。

「父には、多くのものを見て学べばいいと言われました。そして、一日に一本は映像作品を観ることを推奨されたので、その通りに学習を始めました。けれど、一年、二年、三年、何年経っても、理解できません。家族も、友情も、それらの根源である愛も。これも、自分が欠陥しているからでしょうか」

「違うよ。エリヤは欠陥なんてしていない。……その、愛っていうのは、好き、って気持ちが、抑えられない状態なんじゃない?」

「では、先程の母親が、戦争で亡くなった父のもとに行くという妄言と共に子どもと死のうとするのも?」

「多分、愛だよ。ただ苦しんで死ぬより、希望があったほうがいいって、最後の愛情」

「理解できません」

「もっと分かりやすい例えがあるよ。きみがお父さんを悲しませないように努力するのも、愛だよ」

「理解、できません」

 じゃあ、もっと学べばいいよ。という言葉に返答はないまま、スクリーンでは一人の男が愛のために海に溶けていった。



《第一章終》

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