第58話 補調 二

 猫に睨まれた鼠どころか、獅子ライオンに睨まれた鼠である。実際のところ小物過ぎてライオンは鼠など相手にしないだろうが。秋人は慌てて涙を拭った。


「三上浩乃取締役がいらっしゃると伺っていたのですか」

「ええ、すみません。妻は急用ができてしまいまして」


 縁側から庭を眺めていたマリーがひらりと身を翻し、秋人たちと宏輝の間に割って入った。


「ですがお伝えしなければならないことがありますので、代わりに参りました」

「私たちが何をお尋ねしたいか、ご存じでいらっしゃると」


 さすがマリーは物怖じしないどころか、日本でも有数の企業グループトップに増して輝くような微笑みを返す。宏輝は僅かに眉間を歪ませると、小さく溜め息を吐いて語り出した。


「あなた方はサクヤヒメを探している、違いますか」

「そうです。お心当たりがありますか」

「妻が、浩乃が持ち出しました。私も同意しました」


 彫りの深い目元が何か遠いものを見るようにこちらへ向いて、秋人は息を呑んだ。ウロもぎくりとしたように肩を揺らす。隠したかったことには理由があるのだ。それを暴いてしまう自分たちの使命は、業が深いと思う。宏輝は掠れた声音で続けた。権力者とはほど遠い、まだ躊躇いの多い青年のような仕草だった。


 冬原廖庵と私が、彼女たちを守っているのではないのです。彼女たちこそ全てを負ってしまった。何から話せばよいでしょうか。水入り水晶のサクヤヒメ……あの石は貝谷吾郎が大陸から手に入れたものです。貝谷吾郎は戦後経済界のだった男でして、浩乃は貝谷と愛人の清根夫人との間に生まれました。貝谷は奥方を亡くした後、婚姻関係に無い女性が何人かいたのですが、嫡出の娘を七坊家へ嫁がせる際に関係を清算したのです。浩乃は実の父親を知らず、母親からも疎んじられて育ちました。彼女にとって唯一の支えだったのは、奉公に上がった七坊家で出会った結花さんでした。


「紫織さんのお母さん……ですか」

「そうです。戸籍上のことは調べてらっしゃるでしょう?」


 秋人の呟きに、宏輝は苦々しく俯く。結花さんの母親は貝谷の嫡出子で、旧華族の七坊家に後添えとして嫁ぎましたが、出自も分からぬならず者の娘と言われて、婚家で辛い立場にあったようです。結花さんもよく床に伏せっていましたが-今となっては詮索の域を出ませんが、酷い理由があったように思います。二人は無二の親友でした。寂しい境遇にあった二人の少女は、密かに互いに助けあって暮らしていたのです。


「そのままでよかったとは思いません。ですが、廖庵と私が彼女たちを引き裂いた、というのも事実です」

「そんな」

「結花さんは、家が決めた私の許嫁でした」


 秋人は唖然として宏輝を見た。当時冬原廖庵は清根夫人のところへ入り浸っていました。夫人は、金は無いが放埒で熱狂的な若い画家を気に入って養ってやっていたのです。浩乃は初め廖庵を嫌っていたようですが、やがて自立と自由を求めて足掻く廖庵と、連帯感のようなものが生まれたのだと言います。『寥庵には野心が有って、私には商才があったの』だ、と。結花さんは浩乃を通じて寥庵と知り合い、やがて恋人同士になりましたが、結婚は困難でした。七坊家は結花さんを私と結婚させて、新興財閥であった三上家との関係を築こうとしていましたし、清根夫人は己が手塩にかけてきたものにまたもや裏切られることは許し難かった。


「私は、無知でした。決められた結婚や家の事業を継ぐことなど真っ平だと思っていて、山へ登ったり海外を放浪していたのです。そうして、浩乃に出会った」


 寥庵は結花さんを愛していたでしょうが、私は浩乃を愛しています。ですがそのために、二人は一緒にいられなくなってしまった。寥庵は清根夫人の支援を断り貧乏画家に戻ってしまいましたが、それでも結花さんは寥庵の手を取り七坊の家を出ました。浩乃の協力があったのは間違いありません。浩乃はなかなか私に答えてくれませんでした。七坊家に仕える中で身分差別を嫌というほど目にしてきたでしょうし、三上の家も父親のいない芸妓の娘を快く受け入れるとは思われなかった。現在浩乃が三上グループ経営陣の中核にいることができるのは、一重に彼女の才能と努力の賜物です。


「では結果良ければ全て良し《All’s well that ends well》ではないのですか」


 マリーの淡々とした言葉に、宏輝は頬を強張らせた。サザンクロス・ナイツは石を介して人の過去を見ることができるのだと、幸介から聞きました。あなた方に事実を知られることは構いません。ですが、あの子に−紫織さんには、話さないで戴きたいのです。

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