第59話 補調 三
「サクヤヒメがそれを覚えていると?」
「あれは情の
宏輝は携えていた鞄から、木箱を取り出す。秋人はざわりと首元に何か触れたような感覚がして、思わず身を乗り出した。布に巻かれて収められていたのは、水入り水晶のサクヤヒメだ。
「待て」
肩を掴まれて、自分が再び沈み込みそうになったことに秋人は気が付いた。覗き込んだ視線にウロが並ぶ。
「オレがいく」
しまった、と秋人は思ったが遅かった。今しがたサシクニワカヒメの絵を見た時のように、秋人の親和性を利用してウロがサクヤヒメを見ようというのである。止める間もなく、尤もウロの方が術士としての技量は上位であるので、秋人が口を出せることではないのであろうが、ウロの意識が身体をすり抜けていくような感覚に秋人はぞっとした。きっと清根の鏡に取り込まれる自分を見たウロも、同じような気持ちだったのかもしれない。申し訳ないことをした。
「うわっ」
しかしすぐに何らかの力で、石との共振から無理矢理に引き離された。その反動か、気管に水が入ったように激しく
「ウロ! 大丈夫」
青ざめた顔に、震えだす指の間から水が滴り出していた。術士にしか見えない水であろう、石の記憶から湧き出す水。憎い、悲しい、どうして私だけ…… 初めて目にした際にも聞こえた声が、ごぼごぼと鳴る水流の向こうから響いてくる。
「息が」
秋人は慌ててきつく口を縛りつけているウロの手を解こうとしたが、側に立ったマリーに制止される。足元に溜まるほど水を吐いて、ウロはぜい、と顔を上げた。引き締まった頬に顎にぽたぽたと蒼い水滴が伝っていく。掠れた声で秋人を呼ぶ。秋人は強張って崩れそうな肩を支えた。
「これは守る水だ」
「守る水?」
ウロは秋人の耳元へ囁くように言った。
「“子どもを守る水”」
オレはあの人の胎の中にいた。心音と呼吸と温もりと水に守られた場所。けれども揺らぎの向こうから、嗚咽と嘆き、言い争いと怨嗟が聞こえる。オレは知っているのだ、望まれた子どもではなかったと。
「違います、紫織さんは愛されています、生まれた時からずっと」
声を荒げてウロの言葉を遮ったのは宏輝だった。言ってしまってから、苦しそうに眉を歪める。恵まれた体格に溌剌としていた容貌は、萎縮し心痛の深い影を落としているようだった。
「……結花さんの身体は、子どもを産むことに耐えられなかったのです」
「代理母ですか」
マリーの言葉に、秋人は小さく息を吐いた。ウロが寄せた肩越しに目を上げる。その視線に少し泣きそうになる。母さん、と呼べなくなってどれくらい経つだろう。ウロは母親を覚えているだろうか。
「寥庵と私は留意しようとしましたが、彼女たちの決心は変わらなかった。そうです。紫織さんは冬原夫婦の子どもですが、浩乃が出産しました」
結花さんと浩乃はもうご存じの通り血縁関係にあります。ですので適合性はより高いのですが、私は浩乃の健康面だけでなく、私との婚姻前に子どもを産む、ということが、三上家でますます浩乃の立場を悪くすることを恐れていました。卑怯な人間なのです。血の気を失った薄い唇から呻きが漏れる。マリーは無表情のまま、サクヤヒメを見つめていた。
「隠さなければならなかったのは、それだけではありませんね」
宏輝は俯いたまま、諦めの引き攣った声音で呟いた。
「浩乃は“ホストマザー“でもあります。最後の希望でした」
何度でも懺悔しますが、何度でもお伝えします。それでも紫織さんは寥庵と結花さんの娘ですし、そうやって愛されてきました。寥庵がそれを受け入れたのは結花さんのためであったし−結花さんがどうしても寥庵との子どもを望んだのは、己れの寿命を分っていたからかもしれませんし、浩乃がどうしても産もうとしたのは、その子によって結花さんの命を繋ぎ留めようと思ったからかもしれません−私がそれを受け入れたのは、その秘密を共有することが浩乃の示した結婚の条件であったからです。
「冬原結花は、誰を恨んだこともない」
秋人の身体の影から、ウロは宏輝に向かってぼそぼそと言った。呪ったのは己れだけだ。浩乃から注がれる友愛にも寥庵の熱情にも応えることができない。実家からの仕打ちは身体を
「サクヤヒメは、彼女たちの秘めた思いが凝ったものだ。守ってるんだ、“胎の中で“」
ウロは秋人の袖を引っ張って、もどかしそうに口を動かす。秋人がどういうこと、と尋ねる前に、宏輝のジャケットから携帯電話の着信音が響いた。失礼、と取り出し耳に当てながら、宏輝は縁側へ出ていく。しかしすぐに踵を返した。
「浩乃が、寥庵とインドから帰ってきます」
入れ替えられた絵を取り戻した、と。明日午後に、別荘のほうへいらっしゃいますか。全て、
サザンクロス・ナイツ 田辺すみ @stanabe
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