第55話 下り道 三

 突然、真っ黒な衝撃が降ってきた。立っていられずに秋人は膝をつく。身体の芯が歪みそうに圧迫され、息ができない。ウロ、と蝋燭の瞬きを背にした影に手を伸ばそうとしたが、そこに見慣れた青年はいなかった。


「せめて復讐という名が与えられたのなら、あんなことにはならなかったかもしれない」


 あの少年だ。インシャに手を引かれていた少年。何を映しているのかも分からない燃え尽きた炭のようなを初めて直に覗き込んで、秋人は恐れとも違う抉られた感触にえづきそうになった。


「……オレの父親は大陸から連れてこられた苦力クーリーだった」


 戦前の話だ。マレーシアの鉱山で働いていた。母親は生活苦から逃げ出した。その坑夫長屋に転がっている子供はみんな、実の親が誰かもはっきりしなかったし、生きていようが死んじまおうが、誰も大して気にしなかった。みんな自分が生き残ることだけで限界だったからだ。五つか六つになれば現場で石を運ぶことになる。オレは鈍間のろまでぼんやりしていることが多かったから、大人たちからは嫌われたし、他の子供たちにはよく揶揄われた。だって、見えるんだ。石が語りかけてくる。空腹と疲労で朦朧とした頭には、現実と石の記憶の境も分からなくなってくる。父はよく愚鈍だできそこないだとオレを殴った。母は前の現場監督だった男の愛人のようになって出奔していたし、それもあって宗主国の人間に盾ついたかどで、父は借金まみれの下級坑夫から抜け出せないでいた。

 やがて周りの石が囁き始めた。あいつらを消してしまいたいなら、力を貸してやる。『それは実はオレが思っていたことに他ならない』、石たちの声はオレの心の反響に過ぎなかったんだ、分かるだろう。けれど蒙昧な憎しみは肥大する。唯一オレに悪意を持たなかった子供が売られてなぶり殺されたのを目にした時、オレのたがは外れてしまった。


 気がついたら、坑夫長屋は恐慌の中にあった。鉱山が大崩落を起こして、坑夫も石を運んでいた子供たちも押し潰したのだ。夫を子供を見失った人々は、泣き叫びながら山に駆けていく。サイレンがけたたましく鳴り響き、火が上がって山肌が染まり、煤けた空に浮かび上がる。オレは何が起こっているのか理解できずに、坑夫長屋に一人取り残されていた。世界が紅く滲んでいって、空腹と身体の痛みと、もうどうでもよくなった。意識が遠くなるまま横になってどれくらい経ったのか、男が一人オレを探しにきた。


 埋火の瞳がこちらを見る。秋人は萎えた腕で土を掻いた。違う、オレがやったんじゃない。あれは石が引き起こしたことだ。いやそれどこか、単なる災害だったのかもしれない。そう思っていらられば、無知のままでいられたら、よかったのだろうか。オレの力があれを引き起こしたのだと、力を制御できるようにするために、インシャから修錬を施されるようサザンクロス・ナイツが手配したのだと気付いたのは大分時を経てからだった。当時のことは曖昧にしか思い出せない。ただ憎悪と、鉱山に溜め込まれた凄まじい気の噴出と乱流で、焼け爛れた経絡が今だに鈍く痛むだけだ。


「ウロ」


 掠れた声を絞り出し、腰が抜けたまま秋人は痩せて小柄な少年の身体に縋った。過去を変えることも、俺が何を決めることもできない。友人になれなくてもいい、双修だってしなくていい、ナイツになれなくたっていい。側にいることでウロが苦しむなら、もう会わない。

 だけどせめて、想わせてくれ。石のように永遠ではいられない、だけどウロを大事に思っている人間がいたことを覚えていて。


「清根夫人だって、気付けるはずだ。俺たちはその手助けだけすればいいんだ」


 少年は虚ろな身体を預けていたが、触れた頬に滴りを感じて秋人は身じろぎした。


「いいんだよ、泣いて。泣くことすら自分に許さなかったんだろう、俺の前では泣いていい」


 それも罪だと言うのなら、俺が肩代わりする。多分それだけしかできないけれど。紫織さんも浩乃さんも冬原廖庵も三上さんも、そうやって憎しみや哀しみを分け合って生きているんだろう。そういう愛情もあるのだと思う。花弁の降るような瞬きが、暗闇に無数に散っている。あれは失われた命、失われた思い、目を閉ざさないて嘆かないで、刹那だけでも美しいと感じてほしい。

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