第49話 残滓 一

 そもそも仕事があまり生産的ではないので、つい労働時間について忘れがちになるが、ウロはかなりのハードワーカーである。朝はジョギングしているし、午前中は資料に目を通したり、書類の処理や報告の制作をしているし、午後にかけて出先で調査していることも多い。夕方もストレッチやダンベルをしているので、ほとんど休んでいるところを見かけない。どうやら、英語と中国語とマレー語を使えるために、いろいろな連絡役にされているらしい。一人だと食事も抜かしがちなのは、会った時から知っている。


 そのウロが、鹿に取り囲まれて困った顔をしているのは、なかなか見ものだった。突然休みになってしまったその日、折角だからとウロを奈良観光に連れ出した。右目には相変わらず金環が嵌っているが、鹿たちには関係ないらしい。動物に懐かれやすいとは、意外だった。笑いを堪えて鹿たちの中からなんとか引っ張り出し、奈良公園を抜けて、東大寺南門に進む。


「金剛力士像だよ」

 800年以上の昔から、東大寺を護っている一対の神像。仏師運慶・快慶による傑作の一つである。

「生きている以上に生きているみたいだ」

 見上げてウロが眩しそうに言った。薄暗い梁の内側でも輝くような威勢を上げる口元、躍動する筋肉、燃え立つ眼球。秋人は何度か見たことがあるのだが、その度に圧倒される。

「……運慶さん、自分は仏を彫っていたんじゃないんだ、って言ってた」

 会島邸の離れで二人縁側に座りながら、話してくれた。運慶さんは若い頃から『見えた』もの、つまり人の記憶、人の業を彫り出していたのであって、それは本当は仏でもないのだ。『見る』力が己れに有るのだと気付いて初めて、それらが何なのか分かった。

「人の弱さも強さも、仏より美しいものなんだって、だからつくり続けるんだって」

 そう思うことを仏はきっと許してくれる。けれど長すぎる生は多分、この傲慢さの罰なのだろう。術士たちが双修をするのは、独りでは永遠など生きられないからだ。いとしかろうが憎かろうが、何か追い求めているものがなければ、歩みを止めてしまったら、人は人として生きていけない。


「……そうかもな」

 ウロの呟きが、大門の重い天井に微かに響く。今日は良い天気で、行き交う人々の影が陽光のなかくっきりと映えているのに、ここにだけ冷気が澱んでいるようだった。

「アキト、俺は本殿には行けない。大仏は鋳造だろう」

 仏や神として崇められる“石”は、とてつもない数の人の想念を記録している。今の俺が近づいたら、溺れてしまう。涙を堪えるように、右目を押さえて呻く声に、秋人は手を伸ばした。その感覚ならばすこしだけ分かる。秋人の左目も、化石したことがあるからだ。

「うん、それなら美味しいもの食べに行こう」

 目を覆った指先に触れると、赤くなった炭の埋み火のように熱い。どうしたらよいのか分からない自分に不安になるのだが、努めて明るい声を出そうとすると、薄暗がりのなかかぶりを振った。

「……アキト、あの時、俺はお前にどんなふうに見えた?」

 とがはりつけられた瞳がこちらを見上げる。あの時。マーレイ川の向こうに見えたのは紅い花だった。水面みなもに燃える花弁を散らすそれ。石は記録するだけだ。石を通して秋人の感じたウロの本質が、そういうものなのだ。孤高で哀れで美しい。その時から抗い難く魅せられてしまったのだと思う。薄い唇がすう、と浅く息を吸った。

「俺には今のお前が、水底の月に見える」

 近くにあるのに、触れようとすると、指の間からこぼれてしまう。みんなが言うように、お前の気は、絶え間なく湧き出でる水のようだ。彼れも此れも分け隔てなく潤すことができる。俺はかつてほとんど全ての気を散じてしまったことがあって、今は燃えカス同然だ。空っぽだから、下手をすると周りの人間の気を食い漁って燃え続けようとする。

「俺の気が使えるなら、いくらでも。ウロは俺を助けてくれた」

 声が震える。目の前で相対しているはずなのに、ウロと自分は異なる時間の流れに生きているのだ。今の俺には、決してウロを理解することはできない。でも、俺の身体でも気でも、ウロが必要なら差し出せる。水底の月が見上げているのは、川岸に咲く花だ。こちらからだって、届かない。

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