第40話 分化

 紫織に連絡を取って、“サクヤヒメ“のことを尋ねたら、やはり浩乃が持ち出したのだと言う。

「検査のためと仰っていました。父の了承も得ていると」

 こわばった声だ。母が父に贈ったものを、人の手に触れさせたくはないだろう。しかも、父に捨てられ、自分を捨てたかもしれない女性である。


 三上宏輝の別荘では、特に感化を受けるものは見つけられなかった。会島邸でウロに言われた通り、秋人はまだ受け身にしか石と共鳴することができない。石から語りかけてこない限り、または誰かに媒介されない限り、石の記憶を見ることはできない。自分からどう働きかけるか分からないのだ。他人の住居やその家具を理由無く撫で回す訳にもいかないし、そもそもこれと見定めるのが難しい。どうにかして指輪に辿り着けないものかと話題を振ってみても、

「シンプルなものです、当時の私には精一杯だった。けれど浩乃が気に入ってくれているのでね」

 などと穏やかに言われると、とても盗み見る気が失せてしまう。その上、二日目の取材から幸介が出入りするようになり、ますます三上の内部事情を探るという目的から遠ざかっていく気がする。幸介が、秋人と友人になった、と宏輝に吹聴したのか、宏輝は秋人に親しく話しかけてくれるのだが、却って良心が傷んで踏み込んで問うことができない。ジレンマでぐらぐらする。マリーの呆れた視線も痛い。


 宏輝の別荘にある絵はどれも風雅なものだが、やはり一番印象に残ったものは『神流し』だろうか、と秋人は考える。それは、“描かれたもの“によるのか、それとも、顔料に記憶された画家である廖庵の、または所有者である宏輝の、浩乃の心象によるものか、それすらもハッキリしない。しかし、そうか、あの子供はもしかして、紫織なのだろうか。だとしたら少なくとも紫織は、産みの親から別れはしたが、希望と愛情をもって育てられたのだろう。そう思わせるに足る、明るく静謐な絵だった。


 マリーは出版社との打ち合わせに出掛け、秋人はウロと再び会島邸を訪ねることにした。今度は行方知れずの管理人、清根の手がかりを得るためである。ウロは事前に、“サクヤヒメ“の審査を運慶に依頼していた。つまり、新人のナイトが『見て』も、危険なものではないか、事前に確認してもらえるよう取り計らっていたのだが、運慶がギャラリーにやってくるまでに、その“サクヤヒメ“は、持ち出されていた。


水入ウォーター・イン水晶クォーツ、見てみたかったんだけどなあ」

 宇治の駅で待ち合わせた運慶さんは、相変わらず明るい色のシャツを着て、穏やかに笑っている。小柄で飄々とした好々爺に見えて、「筋肉バキバキだから、殴られたらお陀仏だぞ」とマリーが言っていた。シャレにならない。なにせ仏師なのである。

「管理人については、警察経由で調べてはいるんだよ」

 タクシーを降りてから、運慶さんは言う。管理人は一人離れに住んで、会合や接待の日程調整・事務処理を引き受けており、庭の手入れ・清掃・修繕などは専門業者に頼んでいたようだから、そちらに訊き込みにいったみたいなんだけど。

「現在の居どころに関する手がかりはね。あの部屋の絵に関しても、覚えている者はいないらしい」

 部屋数が多い上に、清掃・修繕時には保護のために絵に布が掛けられていた。なかなか徹底したことである。

「一様に、管理人−清根夫人は冬原廖庵の絵の愛好家であるとは言っていたようだけど」

 離れの施錠を開け、磨かれた床板の踏込で靴を脱いで上がると、花盆の花はもう萎れてしまっていた。前室を抜けようとして、秋人はそこに掛けられていた小品に目を留めた。

「オオムナヂ、と……?」

「そうね、大国主の若い頃、オオムナヂの母親である刺国若比売サシクニワカヒメが息子の命乞いをしているところかな」

 傍らから覗き込み、運慶さんが教えてくれる。オオムナヂはスセリビメの夫だ。スセリビメが浩乃であるならば、このオオムナヂは廖庵であろうか。多くの女神たちから愛された、葦原中国を守る第一柱の神。

「オオムナヂは兄である八十神に迫害されて二度命を落とし、サシクニワカヒメの嘆願で、二度命を救われるんだ」

 怜悧な頬を歪ませて、解れた髪から煌々と輝く瞳をのぞかせ天を仰ぐサシクニワカヒメ。見つめるほど、まるで絡みとられたかのようにその場から動けなくなる。


「アキト、燃えている」

 立ち竦んでいた秋人の袖を、ウロが引いた。漆黒の瞳が大きく見開かれている。秋人の注意を引いて緩慢に指先が動き、奥の座敷を差し示した。目を上げて、秋人は声にならない悲鳴を漏らした。燃えている、襖の奥から火の粉を吹いて、部屋が炎を巻き上げる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る