第39話 揺り戻し
ますます分からない。旅館に戻り、明日の準備をしてから湯を使い、秋人は冷たい窓ガラスに寄りかかって外を見ていた。澄んだ空に星が瞬いている。
「アキト」
床に入ったと思っていたウロが、広縁に出てきて、傍らに立った。少し低い位置から見上げる真っ黒な瞳は、おぼろな光を映して何か言いたげだ。
「幸介君とのこと?」
三上幸介と日本語で遣り取りしていたことが気に入らなかったのかと思って尋ねると、首を振った。
「いや、アキトが必要だと思うなら、話してくれればいい」
突っかかれると身構えていた秋人は、何だか気後れして立ち尽くした。喧嘩していて、こちらから身を引くタイミングを逃していたが、ウロから妥協されるとは予想外だった。
「お前が、俺はお前の了承を取らないで、お前に踏み込むことはない、って言った」
一人で納得している。どうして自己評価がそんなに低いんだろうか、秋人は歯痒くなる。ウロは、もともと秋人が本当に嫌がることなどしない。それなのに、どうも己れを悪く見せるように仕向けている。秋人が術士になることを、そして自分の双修の片割れになることを、頑なに拒んでいるようなところがある。あってはならないことにしたいらしい。こんなに優しいのにな、と秋人は星明かりのなかのウロを見る。
「午後の取材に、遅れて三上浩乃が来ただろう?」
ウロは駐車場で待っていたので、外で鉢合わせたのだろう。
「動揺しているように見えた。お前が言っていたように、何か知っていて、何か隠しているような気がする」
お前が“サクヤヒメ“に引きずられそうになった時も、浩乃がやってきたのは偶然ではないのかもしれない。“サクヤヒメ“には、俺たちに見られては厄介な記憶が眠っているのかもしれない。俯き加減に
「でも、何というか、行動に出るようになったのは、会島邸の絵が入れ替わったことを知ってからだよね」
「絵が入れ替わったことと、隠したいことに関わりがあるんだろう。浩乃自身は絵に触れていまい。絵が入れ替わった背後関係の問題だ」
なるほど、と秋人はごつんとガラス窓に額を押し付けた。こんがらがってきた。
「絵が入れ替わる前は、問題が無かったんだろうね? 隠されるべきものは、隠されていた」
ウロが頷く。
「絵が入れ替わったことは、彼女にとって重要ではない。三上にとっては重要だがな」
「やっぱり、“サクヤヒメ“を見るしかなくない?」
はあ、と呆れたような、悩ましいような小さな溜息を吐いて、ウロは視線を上げた。
「だから、今日問い質されたのは失敗だ。浩乃はもう、“サクヤヒメ“を移してしまった」
もしかしたら息子の幸介にも、お前が“サクヤヒメ“を見るつもりなのかどうか、確かめるように指示を出していたのかもしれない。俺はお前たちが日本語で何を話していたのか分らないが。
「何だって……?」
「日本支部から連絡がきた。“サクヤヒメ“の気配が、冬原廖庵のギャラリーから消えたとのことだ」
言葉に詰まって、秋人はずるずると背をガラスに着けてしゃがみ込んだ。
「何だそりゃあ、じゃあ何を見りゃいいんだ」
秋人の隣りに立ち、ウロは暗いガラス窓を撫ぜた。吐息がかかり、白く濁る。
「見なくていい、アキト。お前は話せるから」
こんな能力が無くたって、人は話せるし、記述できる。石のように凝った心にだって、言葉は響く。俺は、お前にそうあって欲しいと思っている。誰のためでもない、俺のために。
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