第36話 神流し 一

 ミカミ・マテリアルズの施設管理部とは別に、三上宏輝は自宅や三上家の別荘にも作品を集めているのだという。グループに所属する建物に設置された絵画やアート作品は既に幾つか撮影されており、今回は別荘の一件で三上宏輝へのインタビューと、本人によるコレクションの紹介という企画であった。


 秋人はマリーの助手として現場に立ち会っていた。さすがに手持ち無沙汰が二人もいるのは不自然なので、ウロは機材を運んできたレンタカーの運転手として、車に待機している。納得はしているが、不満そうにハンドルを操るウロは慣れたものだ。三上宏輝の別荘は、琵琶湖を臨む小高い森の中に建てられたモダンなログハウスだった。カメラの扱いについては二夜漬けで一通り学んだが、とにかくマリーの指示通りに動くだけで精一杯だった秋人は、やっと休憩時間になって、壁に整然と掛けられた絵画に改めて視線を上げた。


 ログハウス自体も北欧建築のように安山岩のブロックと木材を組み合わせたスマートな印象だが、ところどころに日本の伝統意匠が用いられており、優美を隠している。室内は大きく明るく取られた壁に、なだらかに大小の絵画が並べられており、それは雅びなものであった。美術館でも特別展でも見かけることのできない絵画に見惚れて、秋人はふわふわと歩き出す。大企業のCEOといえば、警備員でも付いているのではないかと身構えたが、ここは家族でリラックスする場所ですから、と本人が言っていたように、開放的で、取材陣も一階のどの部屋へも入ることができるようになっていた。


 清廉な光のなかに立て掛けられたさまざまな風景。筆遣いや色合いから、多くが冬原廖庵の手になるものだろうと見てとれたが、神話や伝説の人物を描いたものより、波立つような森林や、溶けるような朝ぼらけや、しんとした草原と小動物など、自然を題材にしたものが集められているようだった。その一つに、秋人は目を留めた。青い山々へと注ぐ水面に小さな葦の小舟。森は仄暗く、しかし生物の熱に満ちてうねり、天にはまだ日が上らず、藍に染まって稜線が銀に烟っている。

「“神流し”……」

「イザナギとイザナミが、最初の子どもであるヒルコを葦船に乗せて流した神話を描いたものだよ」

 タイトルに視線を落とした秋人の背後から、低くよく響く声が言った。驚いて振り向くと、家主の三上宏輝が立っている。先刻からインタビューに付き添って傍らで眺めてはいたものの、やはり三上財閥の企業トップとなると威風が違う。六十に近いはずだが、均整の取れた体格に恵まれ、思慮深いが生気に溢れる目と艶の有るバス・ボイス、明るい色のスーツが似合う人物だった。秋人は気後れするが、声を掛けられれば応えてしまうような、抗い難い引力の持ち主である。

「けれど哀れな感じではありませんね、何というか、山も空も生き生きとしている」

「私もそう思うよ。産みの親からは別離を告げられたが、大地は彼女を受け入れてくれるだろう。希望が有るんだ、だから私はこの絵が好きでね」

 隣りに立つと、秋人と背丈は変わらないがより肩幅が有り、組んだ腕を盗み見れば、あの指輪をしている。

「……冬原廖庵の作品が多いようですが、なかでも風景画を集めていらっしゃいますか」

「彼の描く山に惹かれるね。奥深く静謐で、でも情熱的で。冬原とは長く親交があるんだ、もともと山歩きで知り合った」


 秋人は改めて三上宏輝に面と向かった。冬原廖庵との関係を探るつもりではあったが、あちらからプライベートな関係を口にしてくるとは思わなかった。紫織のことはどう考えているのだろうか、問い正したいところだが、ビジネスマンではあっても、情欲の悪徳からは疎遠な男のようにも見える。

「若い頃から山に登っていたが、家や社会への反発心もあったんだろうな。冬原はあの通り芸術家というか変わり者で、山に篭って絵を描き散らしていた」

 懐かしそうな視線をする。人の機微を読むことは得意ではない。だが、父と同じくらいの歳であろう彼らのことを知りたいと思うのは、自分でもどうすることもできなかった。

「先日ギャラリーにお伺いしたら、今はインドにいらっしゃるそうです。紫織さんが仰っていました」

「はは、そうかもな。だがそういう奔放なところに皆魅せられるのだろう」

 男女関係のもつれか、親子関係の葛藤か、そういうものを超えた一人の人間に対する諦めのような友情と敬愛が滲み出た声だった。許さざるを得ない、紫織が廖庵に向ける感情と、似たようなものを秋人は見て取って、ぐっと息を呑んだ。


「あなた、小野さん」

 二人で絵を見ていると、にわかに玄関の辺りが騒がしくなり、見覚えのある颯爽としたスーツ姿が現れた。

「おや、大阪ではなかったのかね?」

「ええ、用事が早く済みましたので……小野さん、マリーさんも、こちらにお出でになるとは思いませんでした」

 足早に近づき、夫の腕にそっと触れると、三上浩乃は振り向いた。批判めいた視線だ。さもありなんであるが、致し方ない。

「奥様、“ナイツ“は名誉職位のようなものなのです、多くの者が他に仕事を持っております」

 華麗な微笑みで、マリーが何事も無いように挨拶する。そうだったのか、と初めて聞いた秋人は心の中で呆れる。

「浩乃、ここのコレクションは私だけのものじゃないんだ、君も話してくれ」

 妻の心配事が分かっているのかいないのか、三上宏輝は雑誌記者たちに、浩乃も一緒にインタビューを受けることを提案している。雑誌社の方は大歓迎だろう、三上財閥トップ経営陣の夫婦二人に取材できるなど、滅多な機会ではない。その隙に、浩乃は秋人の傍らへにじり寄り、小声で言った。

「何を探していらっしゃるのです。それとも、何か見えたのですか」

 やはり似ている。相手を守るために、燃え上がる美しい紅蓮の情。火の中で子を産んだサクヤヒメ、光輝を振りかざし猛り狂うスセリビメ、母と娘は何故分かれてしまったのか。父たちは何の罪を犯したのか。残されたものは、一体何なのか。

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