第34話 とばりの裏

 旅館のロビー、玄関上がりの板の間に幾つか設られたソファの一つに、見慣れた癖毛が座っていることに気が付いて、秋人はほっとすると同時に気まずくなった。帳台は閉まっており、こんな時間にロビーへ降りてきている客はいない。


「どこ行ってた」

 少年らしかぬ呻くような声で尋ねられ、秋人は靴を棚にしまいながら観念した。しかし紫織の話は、自分が伝えてもよいことなのだろうか。プライベートなことであるし、紫織本人がウロに伝えるまで待つべきだと思う。

「……コンビニ行ったら、鼠狼に会った」

 秋人の躊躇いがちな言葉に、しかしウロはがばりと身を起こした。

「あいつ……! なんで呼ばなかった」

「前みたいにすることはないよ、日本支部と揉めたくないって言っていたし」

 半分本当で半分方便である。鼠狼個人から転職を持ちかけられているとは言わないでおく。立ち上がったウロの袖を引っ張り座らせて、秋人も隣りに腰掛ける。

「でも、メイデンも絵がすり替わっていることを知らなかったみたいだ」

「あいつらの言うことを鵜呑みにするな。仮にそうだとして、日本側当事者に何かあるのか?」

「三上財閥……でも三上浩乃さんも知らないみたいだったしなあ」

 首を傾げて考える秋人を見て、ウロはすうと目を細めた。

「酒の匂いがする」

 ほとんど飲んでいないが、近くで話せば呼気で分かってしまうのもしれない。それともウロの嗅覚が鋭いのか。秋人はぎくりとする。

「それと化粧の匂い。コンビニ行っただけじゃないな」

 非難を眉間に寄せて、真っ黒な瞳が濡れ艶めいてこちらを睨む。考えてみればウロに隠し事などできない。秋人の眼鏡が全て証言してしまうからだ。バツが悪いのと、一人で抱えていた重荷に手を差し伸べられたような気持ちで、秋人はずるずるとソファの背をずり落ちた。

「ゴメン。冬原紫織さんとも会った」

 ち、とウロが舌を打つ。秋人は低くなった視線からウロの青白く精悍な横顔を盗み見た。せっかく温泉に入ったのに、待たせて身体が冷えちゃったんだろうな、と申し訳無く思う。

「冬原廖庵と紫織さんと浩乃さんと三上財閥には、確執があるみたいだ。でも、本人たちに聞いた方がいいと思う」

 強張った視線のまま、ウロがこちらを覗き込む。

「オレはお前なら読める、知ってるだろ」

「うん。でも黙ってはしないだろ」

 カマをかけたつもりが、意外な反応だったのか、眉間が少し緩んだのが、見上げた角度から分かった。

「“ナイツ”の仕事って、個人の苦しかった過去まで見えてしまうから、難しいよな」

 振り返りたくない過去の一つや二つ誰にでも有る。石は記録を選り好みしないし、“ナイツ”には全てが時の流れのまま見えてしまう。鼠狼が言っていた、ウロとインシャが償うべき過去とは何なのだろうか。それも、ウロが話してくれるまで待つしかないだろうし、秋人にとっては現在いまのウロの方が大切だ。


「身体冷えただろう、大浴場ならまだ開いてるから、入りにいこう」

 今度こそ呆れてウロは、何か言おうとしかけた口を閉じて、への字に曲げた。

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