第33話 誰何 二、

 薄い唇をにい、と歪めて、“鼠狼イタチ“は秋人をつまらなそうにしげしげと見る。背後で紫織が不安げな視線をこちらへ向けていることが分かっていて、秋人は腹に力を入れた。見栄を張っている訳ではない、やるべきことを考えていないと、恐怖で腰が抜けそうになるのだ。

「また拐われたいの? まあでも、日本支部と揉めると面倒だからなあ」

 食いしばった奥歯が痛くなりそうだ。ざりざりと鈍器で神経をまさぐるかのように、嫌な声音で男は言う。

「絵を取り替えたのは、メイデンなのか」

「それは違う。今知ったしね」

「今知った……?」

 深く切り込んだ目元を更に細めて、昏い明かりの下、鼠狼は笑ったようだった。きれいに髭を剃った白い顎を撫ぜて、腕を組む。

「道理で動きが鈍い。本当に面白いね、君は」

 しまった、と思ったがもう遅い。鼠狼、つまりメイデンも、“密会に立ち会った“絵が取り換えられていたことを知らなかったのだ。

「やっぱりウチにおいでよ。あの坊やに義理立てしてるんでもないだろう?」

 “あの坊や“、ウロのことだろう。自分も年下扱いが抜けずに相手を怒らせていることは分かっているが、他人から言われると、癪に触る。

「俺は彼の力になると決めたんです」

「あの師弟には近づかない方がいいと思うけどねえ」

 やれやれと肩を竦める男の目は、もう笑っていない。生贄を狩る肉食の獣の瞳孔が、爛々と艶めいてこちらを睨める。


「忘却は神の恵みと言うが」

 かちかちかち、と何かが擦れて鳴っている。ソルティドッグのグラスが小刻みに震えているのだ。液体に細波が立ち、テーブルの上に光を散じさせる。

「忘れもできず、死して贖うこともできず、罪を背負い続ける者の成れの果てさ」

 必至、高い破裂音を立てて、グラスが砕けた。紫織が悲鳴を飲み込み、椅子を引いて後ずさる。いつの間にか他の客は立ち去っており、鼠狼だけが白く烟ったような光の中に佇んでいた。

「……大分発現してきてるね。“ナイト“の行儀なんて教え込まれないうちに、調教してやりたいところだけれど」

 にやにやとした笑い顔を貼り付けて、凶悪な本性を隠した男が態とらしく呟くが、秋人は己れの心音が煩くてよく聞き取れなかった。どうしたことか、激しい揺れに酔ったように吐き気が這い上がり、冷や汗が出る。声が継げなく肩で息をすると、紫織が気遣わしげに手を伸ばしてきた。

「どなたです。何のご用ですか」

 烏羽色の瞳が鼠狼を威嚇するように、ざわりと光を揺らす。オオムナジがスサノオに課された試練を助け、嫉妬に狂う、熱情の女神スセリビメ。忘れていた、女性には皆どこか、そんなものが潜んでいるのだ。

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