第32話 誰何 一、

 絵描きの指とはそういうものなのかな、と秋人は考えながら、紫織の手元で鈍く輝くグラスを眺める。絵の具が染みたような、働いて皮膚の擦れた、けれど肉感的でよく動く指。触れられたら、心地良いのだろうと思う。


「“ナイツ“の方々は、石の記憶を読めると聞きました」

 くるりとグラスを回し、一口含んでから、紫織はつかえを吐き出すように言った。ぼんやりしていた秋人は、我に返り顔を上げる。

「俺はまだ、感覚しかとらえることができません。マリーやウロなら、見えるでしょうが」

「“サクヤヒメ“は何と?」

「お尋ねになるには理由がお有りなのですね?」

 我ながら嫌な言い方だ。過去を見られたくない人間だって沢山いるだろうに、秋人はウロの苦々しい顔を思い出す。暗い灯りのなかで、紫織は微かに笑ったようだった。

「あの石は、母が父に贈ったものなのです。母はもともと丈夫な質ではなくて、私が中学生の時分に亡くなりました。それからずっと、家のことは私がしてきました。父は多忙と申しますか、奔放ですので……」

 女性の、相手の弱さを甘んじて愛せるような寛容さに、秋人は敬服する。狭量な自分は感情に煽られてすぐあっぷあっぷする。だからあまり他人と深く関わりあいになりたくない。

「浩乃さんは、私が小さな頃から、親切にして下さっていたんです。でも、私も絵描きになってから、いろいろと噂を聞きました。その、三上財閥の御曹司が、父を後援する代わりに、浩乃さんとの婚姻を迫ったと」

 父は、己れの絵を世に出すために、三上財閥に浩乃さんを売ったのだと。私は、本当は母の娘ではないのだと。浩乃さんは、三上財閥に父との間の子を手放すよう迫られ、母が引き取ったのだと……

「……お母さんは、紫織さんを疎んでいらっしゃったと思うのですか」

「私は母が大好きでした。病床の、優しい母しか思い出せません。母は心から父を愛していたと思います。それが、私の存在が、母を苦しめていたのかと思うと、辛いのです」

 あなたのせいではありませんよ、と言うのは易いが、それで紫織が慰められる訳でもない。女性たちは誰も、誰かを傷つけようとしたことなど無いのだ。秋人は絞られた照明で何重にも朧ろに浮かび上がる二人の影を見ながら、ゆっくりと言葉を繋いだ。

「俺も父を亡くしているのですが」

 震えるように光を弾く紫織の睫毛が持ち上がり、こちらを見る。濡れて艶めく情の深そうな視線だ。誰かを思い出させる。

「俺自信は迷うばかりなんですが、父は己れの人生を後悔などしていないと思うんです。俺がこうしておけばよかった、と思うことはあっても、父を哀れだと思うことは父に対して失礼なのかなと思います」

 ほんの少し頬を緩めて、紫織がルージュの唇を開きかけたところで、バーテンダーが二人のテーブルの側に立った。あちらのお客さまからです、とソルティドッグのグラスを二つ差し出される。アルコールが回っているせいもあって、秋人は何の注意もせずそちらを振り向いた。


「やあ、また会いましたね」

 ぞわ、と怖気が走り、秋人は椅子を鳴らして立ち上がった。バーテンダーが去りながら、胡乱な視線を寄越してくる。その男はいつからいたのか、カウンターの端でウィスキーのグラスを呷っていた。

「なんで……」

「また君たちが出しゃばるから。あんまり“メイデン”をみくびらない方がいい」

 中肉中背に切れ長の目をした、一見どこにでもいそうなスーツの男は、音も無く秋人へ近付く。秋人は震え出す脚を叱咤して、男の前に立ちはだかった。


「君も懲りないね、また単独行動かい」

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