第30話 浮世床

 闇夜の向こうから川面のせせらぎが響いてくる。障子を開ければ痩せた木々が、月の光を弾いて冷たく輝いているのだろう。秋人は見えないものを想像しながら、湯につかって暖まった体にうとうとして、卓の上に置かれたラップトップのキーを叩いている。マリーが予約していた部屋からは、紀伊山地の峰々がよく見えた。畳の続き間に内湯がついている。夕食は部屋で供され、素晴らしい山と海の幸だった。帰ってきたんだなあ、と秋人はしみじみしてしまうが、まあ、自分で出ていったんだし、と落ち着くことにする。感傷に浸れる立場ではないし、状況ではない。


「冬原紫織の作品を見ているの?」

 横から顔を出してきたマリーは、いつの間にか男の姿になっていた。男性二人と女性一人が同室って、誤解されやすいでしょ、ということらしい。こちらも湯上がりのマリーからは、朝露のようなよい香りがする。

「冬原廖庵が達観した静かな世界を描いているのに対して、冬原紫織は感情の吹き荒れる動的な世界を描いていて、言われていたように、随分違いますね」

「神話や伝説などのモチーフは同じでも、紫織は人間の変わらない業のようなものを描くからな。あの水入り水晶の名前も、日本神話に関係あるんだろう?」

 秋人は思い出して検索する。“サクヤヒメ”、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)は古事記・日本書紀に名前の登場する古代神のはずだ。何をしたのかはうろ覚えである。

「コノハナノサクヤビメはニニギノミコト、最初の王の妃だった女神です」

 だんだん英語での説明が怪しくなってくる。国づくり神話というものはどの文化圏にもあるだろうが、多くの神々がいる場合、人間(?)関係が複雑だ。

「あの水晶が“サクヤヒメ“と名付けられるには理由が有るはずだろう?」

「コノハナサクヤビメは咲く花と繁栄の象徴ですので、まずはあの曙色のためでしょうね。あとは……『水を内包している』からでしょうか」

「神聖な子供を宿しているという意味か」

「尤も、最初は王から本当に自分の子なのか疑われるんですけれど」

「日本神話も結構エグいんだな……デヒティネっぽい」


 暫く日本神話とアイルランド神話について雑談しながら、冬原紫織の作品ページを繰っていると、秋人は鮮やかな色彩のなかで踊るような猛り狂うようなスセリビメに目を留めて思い出した。

「三上財閥と冬原廖庵が関係あることは、偶然なんでしょうか」

 洗い晒しのブロンドを手で鋤きながら、微妙に口角を持ち上げてマリーは秋人を見返した。

「まだ分からんね。確かなのは、三上財閥の支援無しに廖庵はここまで有名にはならなかっただろう、ということだ」

 優れた芸術、人の心を真に打つものが、人口に膾炙しビジネスになるとは限らない。制作資金を調達し、販路を開拓するプロデューサーが必要なのである。

「冬原紫織は、三上財閥の後援をあまり歓迎していないようでしたが」

「何故そう思う?」

 ライトグリーンの瞳が、好奇心を孕んで意地悪く輝く。紳士なのだかスノッブなのだか、単に悪戯好きなのか、こう言うところがマリーは捻くれていて面白い。秋人も演技がかって肩を竦めた。

「なんとなく……。“サクヤヒメ“のイメージもなんとなく不穏でしたし」

「“サクヤヒメ“を『見た』のか?」

「『見た』というより引きずりこまれたんでしょうか、ウロが呼び戻してくれたからよかったですが、」

 あ、と秋人は背を伸ばした。秋人は大浴場へ行ったのだが、その頃マリーは内湯を使っていた。部屋に戻った時にはマリーがドライヤーをかけていて、そろそろ髪切ろうかな、とぶつぶつ言っていた。ウロはマリーの後に内湯に入っていたはずだ。だからもう一時間は湯に浸かっている。


「ウロ、あまり長湯するとのぼせるよ!?」

 オーストラリアでの経験上、ウロが烏の行水であることは知っている。今まで湯につかる習慣が無かった訳で、秋人は慌てて内湯の扉から声を掛けるが返事が無い。マリーと顔を見合わせる。

「体だけは頑丈だから、平気だろ」

「冬はお風呂場での事故も多いんですよ、ウロ!大丈夫!?」

 浴室に踏み込むと、湯気に濡れ艶めく黒髪が浴槽の角でゆらゆらと舟を漕いでいた。湯があんまり気持ちいいので寝落ちてしまったらしい。別にこのくらいの世話ならいいんだけどさ、と秋人は内心溜め息を吐き、ウロの鼻先を引っ張った。

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