第29話 双花

 事務所へ案内され、暖かいお茶を出してくれた女性は、三上浩乃と名乗った。いまだ霞がかった思考で秋人は思い出す。三上財閥グループにおけるトップ経営者たちの中で唯一の女性が、三上浩乃という名だったはずだ。時々メディアで取り上げられている。お茶で一息つき、動悸が落ち着いてきたところで、居心地悪そうに傍らに座るウロに気が付いた。

「お二人は、“サザンクロス・ナイツ”に属されているのだと伺いました」

 ゆっくりだが、なめらかな発音の英語だった。五十代後半と思われる細く柔らかな顎の線と深みのある檜皮色の瞳を向けられて、ウロが猫の毛も逆立つように緊張している。どうやら彼は、年上の女性に苦手意識があるらしい。こういうところは見た目の年相応に見えるんだけどな、と秋人は少しおかしくなる。

「はい。小野秋人と申します。まだ見習いの身分ですが」

 三上財閥は例の密談に関わっていた日本側の当事者だ。どうして“サザンクロス・ナイツ“が調査に参画することを知っているのか、その上そちらから近付いてきたのか。秋人は愛想笑いをつくりながら内心身構えた。

「ごめんなさい、“ナイツ“の方にお目に掛かるのは初めてなので。石が物事を覚えている、というのは本当なんですね」

 穏やかな微笑みはとても裏に打算があるようには思えない。秋人はどう切り出すべきかと考える。実力行使はともかく、ウロは交渉ごとには向いていなさそうだ。

「失礼ですが、あの水晶は冬原画伯のものでいらっしゃいますよね」

「ええ、色も内包する水滴の大きさも貴重な水入り水晶(ウォーター・イン・クオーツ)の“サクヤヒメ“です」

「三上様!」

 コノハナサクヤヒメですか? と秋人が質問を返す前に事務所のドアが開き、パンツスーツの女性がこちらへ早足に近づいた。その背後にマリーが呆れた顔をして立っている。

「お手ずから申し訳ありません」

「まあ、茶飲み話です、紫織さん。ここは馴染みの場所ですもの、お気遣い無く」

 濡羽の黒髪に切れ込みの深い大きな目をこちらに向けるのは、冬原紫織に違いないと秋人は察した。丁度アポイントメントの時間だ。マリーとは廊下ででも偶然鉢合わせたのだろう。

「“サザンクロス・ナイツ“のウロさんと小野さんですね、お待たせして申し訳ありません。冬原紫織です」

 秋人とウロに名刺を渡す間も、紫織の意識はむしろ浩乃に向けられているようで、秋人は違和感を覚えた。浩乃は気にする様子も無く、悠然と微笑んでいる。三上財閥のお偉方である浩乃に対すれば誰だって襟を正すだろうが、紫織の視線はもっと警戒しているようなものだった。

「三上様もよくこちらのギャラリーにいらっしゃるんですか」

「ええ、古参のファンなんです」

「三上様はこのギャラリーの、それから冬原への一番の出資者でいらっしゃるんです」

 秋人と浩乃のやり取りを遮るように紫織が言う。成程、パトロンなのだ。あの密談に使われた和室の絵も、三上財閥が購入寄贈したものなのかもしれない。だとしたら、すげ替えるにも大した手間は無かっただろう。しかしでは何故、紫織はその大切なパトロンをこうも恐れているのだろうか。


「今回お伺いしたのは、宇治の邸宅にあった冬原画伯の日本絵が、いつの間にか入れ替わっていた件についてです」

 秋人の逡巡に間髪入れず、マリーが尋ねた。三上浩乃がそれを手配していたらどうするんだ、と秋人は焦るが、マリーはこちらを見て鼻で笑った。己れがマリー以上に頭も舌も回るとは思えない秋人は、黙ることにする。予想外に、紫織も浩乃も驚いたようだった。

「冬原の絵が、誰も知らないうちに入れ替わったんですか?」

「元の絵が何か、記録をお持ちではないかと思いまして。現在の絵は水蛟のものです」

「水蛟の絵に覚えはあるのですが…… こちらから購入されたお客様の記録はありますが、その後個人で譲渡されたり転売されていては、分かりません」

 それはそうだ。人気の有る画家だから、美術館が展示用に購入したのでもない限り、頻繁に取引されていてもおかしくない。秋人は紫織を見る。意志の強さと可憐さがどちらも備わったような、美人というほどではないが、魅力的な女性である。冬原寥庵は絵画に対し、非常に没頭的で個性的な人物であると聞き及んだことがあるので、幸いなことに母親似なのかもしれない。

「あの、冬原画伯は今どちらにいらっしゃるんですか」

 秋人の控え目な質問に、短髪をさらりと揺らし、紫織の深いぬばたまの瞳がこちらを向いた。

「冬原は今、インドにおります」

 冬原は顔料を自ら採掘に行くのです。連絡の付かないこともままありまして……ご迷惑をお掛けします。度し難い男だと思いながら、家族としての愛着と、同じ画家としても尊敬の念がそうさせるのか、紫織がそう答える声はどこか麗かだった。秋人はまたあの胸騒ぎが染み込んでくる感覚に、目を逸らした。何かが、日の沈むような緩慢さで、ずれてくるっていく。ウロに袖を引っ張られて、秋人は小さく頷いた。またすぐ溺れることになる嫌な予感がするが、見届けることを諦めきれない、それが“ナイツ“なのだと、もう知っている。

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