第28話 感化

 マリーが日本支部経由で調べてくれたところによると、冬原寥庵は紀伊山地の麓に個人ギャラリーを持っているらしい。作品の保管と貸出・販売・メディア露出、ギャラリーのマネジメントなどを引き受けているのは、娘で同じく日本画家でもある冬原紫織の事務所であるという。


「父親とは随分異なる作風だけどね」

 整備された閑静な山裾の道を辿りながら、マリーは冷たく清涼な空気に白い息を吐く。秋人はポケットに手を突っ込んだまま、すぐ後ろを歩くウロを見た。お仕着せに巻いたマフラーから大きな目がやぶ睨んでいる。日帰りで行くには微妙な距離なので、奈良のホテルは引き払い、今夜はマリーと同じ宿を取っている。秋人とウロには気が引ける高級旅館だが、マリーが支払ってくれるらしい。

「まだ来たことがなかったからね、紀伊山地は」

「日本の地理に詳しいですよね、マリー」

「何度か撮影で来たことがあるの」

「撮影?」

「そいつ、副業はフォトグラファーだぞ」

 小声のツッコミが背後から聞こえ、秋人は半分驚き半分呆れた。錬金術士で捜査官でフォトグラファーとは、どういう職業選択なのだろう。

「日々喜びを実践しなければ、永久の年月など生きられないのよ」

「仰りたいことは分かりますが、何を指すのか分かりません」

「美しいものを愛でることさ。芸術にしろ、自然にしろ、男でも、女でも」

 胡散臭い、とウロが呟き、マリーは艶やかなルージュを歪めてせせら笑う。二人に挟まれた秋人は、冬晴れの空を仰いで肩を竦める。辿り着いたギャラリーは開化期の和洋館のような佇まいだが、内部はモダンなデザインになっていて、建築自体も鑑賞に耐えそうだな、と秋人はレセプションで辺りを見渡した。アポの時間より一時間早く到着して、先に作品を回る予定である。奈良の図書館で一通り代表作は確認していたが、ここには習作も多く、ファンが多く訪れるのも頷ける、と秋人は順路を進みながら思う。絵画を見ることは嫌いではないので、目的も忘れて部屋から部屋へ移動していると、来観者の緩やかな流れから外れたところに、狭い階段が、陽光の向こうでかげろうのように浮かび上っているのが見えた。


「アキト」

 そのよく磨かれた手摺りに触れると、腕を引かれた。眉間に躊躇いがちな皺を寄せて立っていたのはウロだ。一人でどこ行くんだ、と冬の日を映してゆらゆらと揺れる瞳が見上げている。秋人は不思議な、しかしどこか不吉なその色を眺めながら小首を傾げる。

「屋根裏に行けるらしい」

「お前、変な感じだぞ。オーバリーで時計を見ていた時みたいだ」

 変な感じって何だ、と秋人はむっとするが、階上が気になって仕方がない。ウロの手をすり抜けて、おもちゃのように急で狭い階段を登っていくと、ウロも付いてきた。


「凄いな、工房だ」

 明りとりの窓から差し込む光は朧ろで、天井は低くかしいでいるが、そこは岩絵具の調合場のようだった。色とりどりの鉱物や貝殻が塊のまま、また砕かれて粉末のものが瓶に詰められていたり、乳鉢の底にこびりついていたりする。膠の匂いが鼻を掠め、色見本が放られており、試しに塗られた小布が壁にピン止めされていなければ散らばっている。使い込まれた水皿と筆がばらばらと台の上に踊っている。秋人はしばらく立ち尽くして眺めていたが、壁に取り付けられた棚と棚の間に、額縁が掛けられていることに気が付いた。近付いて覗き込むと、嵌められたガラスの下で、布に包まれているのは薄暮色の石だった。完全な透明ではなく、羽根を広げたような濁りが入っている。そこに、まあるく日輪が掛かっている……

「アキト、無闇に同調するな!」

 耳元で言われ、秋人は大きく息を吸い込んだ。今、何か見えそうになったのだが、ビジュアルが立ち上がる前に身体が引き絞られるような、悲しみとも怒りともつかないものに襲われて脚が砕け、背中からウロに寄りかかるようになっていた。

「ごめん、助かった」

「水晶か……? どうしてお前なんだ」

「それは、“水入り水晶“です」

 憎い、愛しい、寂しい、慟哭のようなものが迫り上がってきて、心臓が激しく波打ち、秋人はウロの肩を支えにしてなんとか身体を起こした。耳の奥が鳴って、視界が浸水を始め、ウロの声もよく聞こえない。またあの水の中でもがくような感覚だ。だがもう一人階段を登ってきた人物の声が、こちらに引き戻してくれる。


「古代の水をその内に閉じ込めた、水晶です」

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