第26話 トリック
庭の石が教えてくれたのは、その絵が掛け替えられた、ということだ。まだじんじんと冷えて痺れたようなこめかみをさすり、秋人は暖かい湯呑みに口をつけた。遅い昼食はマリーの奢りで蕎麦屋だ。ゆっくりお茶を飲み、息を吐く。
「私はオロシにする」
「よく分からない……」
「あんたはタヌキでいいでしょ」
「タヌキ?」
「ラクーンよ。ラクーン・ソバ」
「日本ではラクーン食べるのか」
なんだか面白い会話をしているなあ、と二人を眺めながら、光景を思い出そうとするのだが、氷が融けていくようにぼやけていってしまう。布で包まれた絵があの部屋から運び出され、恐らくあの水蛟の絵が代わりに運びこまれる。水蛟の絵だと分かるのは、縦横比に見覚えがあるからだ。運んでいた人間たちの顔も、まるで面を被っているようにはっきりしない。
「そりゃまあ、見えない訳よね。何の解決にもならないけれど」
お品書きを置き、マリーが上品にお手拭きを広げながら言う。ウロは注文が終わってしまうと、頬杖を突いてそっぽを向いている。秋人はテーブルの下でウロを蹴っ飛ばしたくなる衝動をなんとか抑え、マリーに応えた。
「水蛟の前に掛けられていた絵は何だったか、調べることはできるでしょうか」
「難しいでしょうね。管理人は不在、あの場所はあまり公けにはできない会合に使われてきたから、訪れたことのある人物も自ら名乗ろうとはしないだろうし」
茶柱も全部寝てるし、幸先が悪いなあ、と秋人は湯呑みからウロを盗み見る。ウロは様子を窺われているのに気付いているが、無視して視線を落としている。そんな二人に、マリーは呆れた溜め息を吐いた。
「あんた達、ホント大人気無いわね」
「……考えたんですが、画家本人であれば自分の絵と譲渡先を全て把握しているはずですよね」
冬原廖庵は有名な日本画家だから、作品リストがあって然るべきだと思う。そこから以前あの部屋に掛けられていた絵が探せるはずだ。マリーはそうね、と相槌を打ちタブレットを取り出して検索を始めたが、どうもオンライン上に公開はされていないらしい。冬原廖庵の作品集は幾つか出版されているが、全て網羅されている訳ではないだろう。あの場所では、所蔵を明記するのも憚られるかもしれない。
「この後、図書館で作品集を見てみますが、俺には判別できないと思うんです。絵は布に包まれたまま運び出されたし、庭石たちは室内を知らない」
「作品を管理しているエージェントがいるはずだと思うけど。日本支部経由で連絡を取ってみる」
「どれか分かっても、じゃあ今どこに有るんだ?」
ウロの質問は尤もだ。秋人は渋く眉間を寄せて、お茶をもう一口啜る。マリーが肘で隣りのウロを突ついているのが視界の端に見えた。ウロは面倒臭そうに頭をかいて顔を上げる。
「……手がかりには違いない」
「あんた達は図書館、私は支部の後また合流しましょう。行きたいところがあるの、付き合って頂戴」
鍛えられてはいるが少年の体格を丸めた背に、マリーは苦笑するような憐れむような口元で言う。マリーとウロは、親子のような仲間のような、不思議な繋がりだ。秋人はまた微妙な気持ちになる。もっと術士について学ばなければと思うし、もっとウロのことが知りたい。あの言いようからすると、ウロは自分が術士になることを快く思っていないのではなくて、術士になって危険に晒される……自己防衛能力の無さと、それにウロの気性が自分を害することを恐れているようだった。そんなことない、大丈夫、と言えるほど、自分は何も分かっていない。言葉を継ごうとしたところで、暖かい湯気を上げた蕎麦が運ばれてきた。
アキトのつくってくれたラーメンも美味しかった
昨晩も二人で牛丼を食べに行き、満腹で夜道を帰りながら、日本とマレーシアの食べ物について喋った。フライトと日本支部でのやり取りで疲れていたのだろうウロが、眠気でぼんやりしながら、そんなことを言った。俺も、ウロと一緒に食べるのは楽しい。あーあ、どうしてそれだけじゃ駄目なんだ。秋人は、つゆの染みた油揚げに噛み付いた。
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