第17話 逢瀬

 小さい頃、家族で両親の田舎に帰ると、川でよく遊んだ。最初に泳ぎを教えてくれたのは父だ。母が一人になっても、水泳は続けた。父のことを忘れたくなかった。誰にもその生き様を知られずに失われていくことが哀しかった。大きくなって、人はみんなそんなものだと諦めて、自分も誰にも知られずに生きればよいと思った。水の中ならば、どんなに泣いても、分からない。


 水は酷く濁っていて、闇夜に混ざって何も見えない。肌に砂だか木屑だかがぱちぱちと触れては流れていき、上下すら判別できなくなってくる。そこにぽっかりと月が浮かんでいるのが見えた。微かな、しかし遠くまで照らす光の中に、誰かいる。


父さん、


 声にならずに呼んで手を伸ばすと、父の面影は流れに消えてしまった。光はゆらゆらと沈んでいき、人魚の鱗に反射でもするように、大勢の人の顔が輝きとともに映っては消えていく。これはみんな、“ムーンリバー“が見ていたものだ。何もかも平等に記憶されていることは、多分神の愛に近い。“ムーンリバー“はずっと先代の側にあって、彼の望郷を懺悔を愛惜を聞いていた。彼は“ムーンリバー“に何も負わせなかったし、“ムーンリバー“に誰を責める手段も無い。石は人の感情を覚えているだけだ。企業は兄弟で協力して継いでほしかった。故郷が本来の姿を取り戻すために、助けてやってほしかった。二人の考えや、やり方は違うだろうが、その違いを繋ぎ合わせることで、より良くなるのだと知ってほしかった。もっと、妻と語らい、子供たちを孫たちを、可愛がってやりたかった。メイデンを憎く思ったことはない。メイデンの罪は、それに与した全ての人間の罪であり、全ての人間が贖わなければならない。先代が“ムーンリバー“に託したのは、希望だけだった。忘れられないほど、それは愛おしいものなのだ。


「アキト!」

 触れた手の熱さに、秋人は泥まみれで重くなった瞼をゆっくりと持ち上げた。膜の張ったような視界に火がちらちらと踊っているが、身体の疲労に引き摺られ、意識が再び溶けて闇に還ろうとする。すると、火の粉が雫のようにほとほとと秋人の頬に落ちてきた。

「……ウロ?」

「アキト、よかった、ごめん」

 次第にはっきりしてくる視界に、幾つもの大型照明が夜空に交錯しているのが見えた。覗き込んでいるウロの瞳も、星のように底光りしている。

「すぐ救急車が来るから」

「ミスター、と鼠狼、は?」

 声を出そうとして、喉に溜まっていた汚水に咽せる。ウロがペットボトルの水を差し出してくれ、口をすすいだ。やっと気付いたが、ウロに抱え起こされていたのだ。二人とも泥だらけで、濡れた服が重く滴る。

「喋らなくていい。イーソン・チャオは保護された。あの男は、……すまない、取り逃した」

 ウロとマリーが対岸でボートを見つけた時、鼠狼の姿はもう無く、火傷に裂けた脚のイーソンが声を張り上げて助けを呼んでいた。秋人が川に落ちる寸前、鼠狼が器用にもワイヤを巻きつけ、イーソンと二人で引き上げたのだそうだ。“ムーンリバー“のひとかけは、マーレイ川の底へ沈んでしまった。泥に塗れて流されて、もう二度と見つけることは叶わない。ならば石の記憶を見る機会も永遠に失われたのであって、メイデンは関与を打ち切るのが妥当と判断するだろう、と鼠狼はイーソンに吐き捨て姿をくらました。最初から最後までよく分からない男だった、とイーソンは証言し、深い眠りに落ちていった。


 ばたばたと複数の足音が駆け寄ってくる気配がした。救急隊員だけでなく、髪もスーツも乱した、壮年の男の憔悴した顔が視界に入り込む。担架だ、手伝おう、とウロの腕から秋人の身体を引き受けようとした一瞬、ウロはもう一度牡丹色の息で秋人に囁いた。スーツの男は恐らくデレク・チャオだな、彼らの祖父の若い頃に少し似ている、とぼんやり考えていた秋人は、炎のゆらめきに思考を煽られて、灯火の消えるように意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る