第16話 償い

「やれやれ、もう封鎖されてる。手際がいいなあ」

 鼠狼は大して狼狽える様子も無く、態とらしく息を吐いて言う。道の前方で警察が検問を行なっている。きっとマリーが手配したのだろう。しかし自分が連れ去られてから出動を要請したのでは遅すぎる。恐らくあの夕方の打ち合わせの時から準備されていたのだ。ということは、自分の知らないところで、事態は変わっていたに違いない。本当に役立たずだな、それどころか足引っ張っているし、秋人はごつん、と額を窓ガラスに打ち付ける。

「どうやら取締役がメルボルンから到着されたようですよ」

 携帯を片手に視線をやる鼠狼に、イーソンはぎょっとして振り向いた。

「デレクが?」

「貴方がオーストラリアへ入国してから、消息が途絶えていたのを、妹さんが問い合わせたらしいですね。ご兄妹、仲がよろしいんですな」

 ジェニファ……とイーソンは頭を抱える。あいつは昔からそうだ、俺と兄貴が喧嘩すると、いつも首を突っ込んでくる。言いながら、忌々しさなど微塵も無い言葉に、秋人は少し笑った。秋人の姉もそんな感じだ。この三人を育てた先代は、償いを果たそうと、その思い半ばで亡くなった。イーソンは、静かに話してくれた。


 妻と共にオーストラリアへ移民してきた祖父は、よく働き長じて企業オーナーとして成功した。己れの野心と家族を守ることに心血を注ぎ、鉱山技術者であったバックグラウンドと経営手腕を買われ、やがてメイデンとオーストラリア、中国の資源開発ビジネスを取り持つフィクサーのような役割を担った。祖父の仲介により、メイデンも政府も膨大な利益を得たと言われている。しかしある時から見切りをつけ、それどころかメイデンの経営戦略に異議を申し立てるようになった。メイデンと国との密約や、競合企業への敵対行為・買収などの事実を暴こうとし、メイデンだけでなく、自分の設立した企業内でも孤立した。

「なぜ……」

「……爺さんは、自分の推進した開発事業で、故郷が変わってしまったことを、最後まで嘆いていた」

 オーストラリアで働いて働いて、豊かになっていつか、あの美しい故郷に、妻と子供たちと帰ることが夢だった。それなのに、己れの得た権威を振りかざし、金を使えば解決できると信じたことは、故郷を全て色褪せてしまった。それは自分だけでない、故郷を出て働かなければならなかった沢山の無名の者達の、帰る場所を、奪ってしまったということだ。

「経済開発は重要だ。それは俺も分かっている。けれど、人間は一人で生まれるんじゃない。山が森が川が海が、虫が鳥が動物たちが、隣人が愛する人々がいるから、誰でも生を受けるんだ。そうだろう? そして皆、そこへ帰るんだ」

 親父だって兄貴だって分かっているはずだ。けれど、大きくなってしまった企業を守らなくてはならないから、黙らざるを得ないだけだ。

「美談ですな。しかし人の社会は大昔から変わらないのですよ。強者が統治するのです」

 鼠狼は大した感慨も無く言い、検問前でハンドルを切った。暗い道を下っていき、やがて舗装が途切れて車体がガタガタと揺れ始める。後ろ手に縛られているためシートベルトをしていない秋人は座席からずり落ちそうになるが、ますます悪くなる視界に一瞬、パトカーの赤と青のサイレンが遠くから、曇った夜空に反射して見えた。ウロとマリーが来る、と思ったら、今度は本当に、−“ムーンリバー“の意思ではなくて、自分が泣きたくなった。


 州境は長く伸びている。河岸を全て封鎖することは不可能だ。草むらで車から降り、鼠狼はイーソンと秋人に川へ歩いていくよう指示する。立ち上がったイーソンの片足首にワイヤロープが巻かれていることに気が付いて、秋人はぞっとした。言葉が継げずイーソンを見ると、携帯ライトで半分だけ闇夜に浮かび上がった顔が苦笑する。隈が酷い。

「それのせいで、逃げられん。この男も術士なのだそうだ」

 素振りを見せれば、感電して歩けなくなる。まるで孫悟空の緊箍呪だ。秋人が恐る恐る鼠狼に振り返ると、両手首にワイヤを絡ませている。切れ長の目が涼やかににやりと笑う。

「君さ、“ナイツ“じゃなくて、ウチにおいで。力が有るのに、“ナイツ“の決まりごとばかりじゃ、何もできないじゃない」

 ぱちぱちぱちと、鼠狼の両手首が電光を上げる。暗闇に星をまき散らすようで、それは綺麗だ。思わず見惚れそうになり、秋人は後退りする。煌めく腕が伸びてきて、身動きできない秋人の左目に触れた。

「あの頑固ものに随分気に入られたようだ。是非“ムーンリバー“を暴いてみたいな」


 林の裏、水の澱んだ川べりまで降りてくると、ボートが一隻繋がれていた。男三人が乗っても充分な広さのあるもので、鼠狼がエンジンをかける。ゆっくりと、靄のかかった暗い川面に漕ぎ出していく。墨を引いたような波紋と、スクリューの上げる泥の水飛沫を見ながら、秋人は意識が沼の底へ底へと沈んでいくような錯覚に囚われた。静寂に、光が閉じていく。暖かくも冷たくもない透明なものに包まれ、呼吸がこぽりこぽりと軽く失せていく。ああ、消える時は、こんな感じなのだ、とぐらついた身体を、イーソンが掴まえた。

「付き合わせて悪いが、君に“ムーンリバー“を見てもらわねばならない」

 まだぼんやりと濡れた思考で、秋人はイーソンの肩越し、川向こうに咲く花を見た。紅い花びらが火の粉のように水面に散っている。ああ、あれはウロの花だ、と秋人は思う。そうだ、ウロと映画に行く約束をしたんだ、帰らなくてはならない。秋人の次第に光を失っていく瞳を見ていたイーソンは、怒った顔を上げた。

「返してもらおう! それは俺の家族だ」

 鼠狼に突進する。体格はイーソンの方が大きく、不意を突かれた鼠狼は押さえ込まれるかたちになる。揉み合いボートが激しく揺れる。しかし直ぐに破裂音がして足首と手首のワイヤが電光を吐く。鼠狼の胴を舟底へ押し付けたまま、イーソンは苦痛に唸るが、歯を剥き出しにして吠えた。

「もっと雷電を使ってみろ、エンジンに引火してやる」

 鼠狼の手首を捻り上げ、操縦者を失って空回りするエンジンへかざす。鼠狼は切れ長の目を大きく見開き、激昂とも陶酔ともつかない歪んだ笑いを漏らした。

「俺はこれくらいしかできない、兄貴のように優秀じゃないんでな。だが返してもらうぞ」

 鼠狼の腰のホルダーから“ムーンリバー“を探り出すと、イーソンは秋人を呼ぼうとした。呆然と座り込んでいた秋人は、やっとイーソンに応えて揺れる舟底を這い寄る。しかしその隙をついて、鼠狼はイーソンの腹を蹴り上げた。イーソンは衝撃に呻き、握っていた“ムーンリバー“が指の間から零れ落ちた。

「待って……!」

 軌跡を追って、秋人は上体を伸ばした。ぐらりとボートが揺れ、そのまま共に、暗い水の中へ落ちていった。

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