第9話 幕下

 講義の内容が全く頭に入ってこない。スクリーンをレーザーポイントで指しながら教壇の上を歩き回っている講師の目に留まらぬよう、分厚い参考文献の影に縮こまりながら、ウロとの会話を思い出す。火曜日は一時半から三時間の講義なので、昼食を終えてシャワーを浴び、慌てて出てきてしまったのだが、ウロもキャンパスまで着いてくると言う。通達が届いたようだから、もうアキトにちょっかいを出してくることはないと思うけれど、事情が複雑だから、……できるだけ側にいる。ということらしい。全く格好がつかないが、まあ、歳は近いようなそうでないような。


 オパール は古代から宝飾品として用いられてきたが、現代はオーストラリア産が世界産出の九割を占めている。オーストラリアの豊かな鉱物資源は、多くの人々を魅了してきた。ゴールドラッシュの際に移民してきた趙ファミリーは、鉱山労働者を対象としたビジネスで成功し、一時期オーストラリアの経済界でも相当な顔役であった。

 しかし二世代で身を持ち崩した。投資を誤り、一族のビジネスは“メイデン”の末端に売却されることになった。条件は破格のものであった。そして趙ファミリーの相続争いを引き起こした。

 メイデンがファミリーの負債を肩代わりする条件は、先代から一族が所有してきたオパール “ムーンリバー”をメイデンに譲渡することだった。大きさもさることながら、深い地色に鮮烈に入る遊色で、その価値は百万豪ドルを下らないと言われていた。

 二代目には子供が三人いた。メイデンは宣告した。誰が一族のビジネスと財産を引き継ぐかは、先代の遺志を尊重する。『“ムーンリバー”に記録されている通り』。


「問題は、この“ムーンリバー“がいつの間にか削られていたことだ」

「ああ、そのペンダント・トップってもっと大きな石から切り出されたって言ってたっけ。それが“ムーンリバー“なんだね」

 再びメトロに揺られながら、またもや端の方の席で、今度は肩が触れるくらいにひそひそと話す。線路を走る騒音が大きいので、まず他の乗客には聞こえないだろうが、どうしても夏休みの悪巧みをしている高校生みたいな気分になるな、と秋人は思う。申し訳無いが、実感が乏しい。

「三つ切り出されていることが分かった。一つはこれ、もう一つは既にマリーの手に有る」

「じゃあ、探しているのは最後の一つ?」

 ウロは小さく溜め息を吐いたようだった。こういう動作は実年齢相応だな、などと秋人は可笑しくなる。

「あんまり他人の家の話はしたくないんだが……三人の子供たちのうち、もともと長男が父親の事業を手伝っていて、メイデンが口を出すまでは、問題にならなかったんだ。投資の失敗については、二代目の引退で決着するはずだったからな。次男は父親と兄の方針に反発して家を離れて長かったし、長女はマレーシアに嫁いでいた」

「もしかして兄弟妹で取り合ってるの?」

「うーん……兄は公けにしたくないし、弟は事業改革のチャンスだし、妹は兄たちの喧嘩にハラハラしてる。三人とも別に悪い人物じゃない、メイデンが嗾けてるだけだ」

 その妹が、オレたちマレーシア支部に援助を求めてきた。放っておくと兄たちとメイデンの争いが暴力を伴うものになって、犠牲者を出すかもしれない。それは、祖父の望むところではなかったはずだから。

「依頼を受けたのはオレじゃないんだが……」

「どういうこと?」

「……先に謝っておくけど、オレの養父で師匠に当たる男が、ちょっとかなり厄介で」

 秋人は夢に出てきた苔色の瞳の男性を思い出した。あの回廊でマリーに警告し、ウロの手を引いて去っていった背中。ウロは眉を顰め、苦々しく、しかしどこか寂しそうに呟く。

「今回はシンガポールのカジノで大負けしたらしい。相手は趙ファミリーの妹だ。それで二束三文引き受けた」

 ウロはコートのポケットからひしゃげた絵葉書を取り出すと、秋人に差し出して見せた。豪快だが滑らかな筆致の中文が、万年筆なのか青いインクで走り書きされている。達筆過ぎて読み取るのに四苦八苦している秋人の横で、ウロの吐息がまた僅かに牡丹色に染まった。

「そのインクには、鉄が含まれている。書かれていることと、記録されていることは違うんだ。インシャからの暗号だ」

 またちろちろと蜥蜴のように紅い舌を泳がせて、ウロは囁く。見惚れているうちに、大学最寄りのセントラル・ステーションに着いてしまったのだった。

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