第6話 接触

 メトロに揺られながら、秋人は恐る恐る携帯のアドレスを覗き見た。通勤時間帯は過ぎており、下りなので混んではいないが、なにせこの顔なので端の席に縮こまっている。市中の地下路線を抜けて、既に高く上った太陽の光が窓から流れ込む。自分には不釣り合い過ぎてあの部屋からは早々に出てきてしまったが、無理矢理連れて行かれたのだから、コーヒーの一杯でも飲んでくればよかったかもしれない。夢見のせいだけでもないだろうが、頭がぐらぐらする。

「Wulao? これ、ウロのことかな」

 もともと登録名の少ないアドレス・リストだが、二人増えていた。すっかりMarieなのかと思っていたが、マリーはMareeという綴りらしい。Wulaoは恐らく拼音表記のウロの名だ。漢字もあるのだろうが、マンダリンをちょっと齧ったことがあるくらいの秋人には判別できない。メッセージを送ってみようかな、と思って悩む。昨夜からいろいろあって肝心なことに気が回らなかったのだが、あのオパール は今だ秋人のバックパックに入っているのだ。そもそも他人の携帯電話を勝手にいじるくらいのマリーが、このオパール に触れなかったというのがおかしくないか。作為を感じる。


 捜査に協力しろ、と言っていたが、要するに手駒にされているような気がする。このオパール をウロに返したいものの、変なトラブルまで連れていきそうで嫌だった。もっとも、そんなことを気にしていられる立場でもないのだが。今すぐ助けを求めるべきなのに、我ながら呑気に渋っていてよいものか。こういう決断力の無さが、仕事でも役に立っていなかったことには反省しきっているはずなのに、なかなか変えられない。それにしても、魔女(?)でも携帯電話使うんだなあ、そりゃそうか。最寄り駅前に着き、改札を抜ければ、シェアハウスまで歩いて十五分とかからない。


 シドニー近郊の住宅地域は、多民族多文化がよく混在しているが、ところどころ集住地区が見られる。秋人のシェアハウスは華人系の住民が多い街にあり、アジア雑貨店や生鮮食料品店、レストランが立ち並び、日本人の秋人にとっても当初から馴染みやすい場所だった。商店街裏の路地は、丁度開店時間帯で人気が無い。秋人はウロと連絡を取るべきか悶々としつつ慣れた道のりを辿っていたが、ふいに声をかけられた。

「対不起(すみません)、ここに行くにはどうしたらいいんでしょう」

 にこやかな中年男性が、携帯電話上の地図を指し示しながら尋ねてきた。歩きながら考えごとの最中だった秋人は、さほど注意もせず答えようと男の手元を覗き込む。と、ぐいと携帯を胸の辺りまで近付けられた。周囲からはちょっと密接して話しているな、くらいにしか見えないだろうが、携帯とそれを持つ指の間から、ひやりとしたものが伸びて、秋人の皮膚に触れた。

「あ、なんだ、チャンさんじゃないですか。久しぶりですねえ」

 動けなくなった秋人に、男は愛想よく話し続ける。

「“あれ”どうなりました? 見せて頂けません?」

 陽気なほどの話し声には何の変化もないが、凶暴な視線が秋人を刺す。オパールを出せ、と言っているのだ。拒絶したらどうなるのだろう。助けを求めるにも路地に人影は無い。もしかしたら人払いされているのかもしれない。恐怖で身体が凍ったようになる。

「え? 家にあるから寄っていけって? いいんですか? 悪いなあ」

 男は畳み掛けて話し続け、立ち竦む秋人の肩を、もう片方の手で掴んだ。笑顔なのに凄まじい握力で締め上げられる。秋人は逃げ出したくても、声すらでない。

「車そこに停めてるんです。乗って下さい。家まで行きますよ……」

「アキト!」

 駆け出してきた黒いコートが、秋人の手を取ってその場を引き離した。呆然としている秋人と男の間に割って立ったのは、ウロだった。

「あんたのところの老板にも、話はいってるはずだ」

 ウロが言うのと同時に、男の携帯からメッセージの着信音がした。男は隙の無い手つきで携帯を引き戻し、丁寧に内容を確認する。

「……おやおや、急用が入ってしまったようです。残念ながらまたの機会に」

 全く感情の読めない笑顔に、秋人は改めてぞっとする。男は切長の目でウロを一瞥すると、身を翻した。猫背が角に消えて立ち去り、秋人はやっと青褪めた口元を蠢かす。

「なんで……」

「ゴメンな、アキト。時間食っちまった」

 抗って力の入ったままだった肩をぽんぽんと慰めるように撫ぜられ、あの真っ黒な瞳に見上げられると、途端に腰が砕けそうになる。情け無いことに、家までの道をウロに送ってもらうはめになった。

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