第3話 一縷

 そろりとキッチンに降りていき、水を汲む。もう真夜中に近い時刻で、大家も、もう一人いるシェアメイトも、寝室へ引き上げていた。大分腫れは治まってきていたが、あまり見て快いものでもないので、秋人はこの時間まで自室に篭っていたのだった。何か軽く食べようか、ヨーグルトがあったかな、と冷蔵庫を開けて、ウロが言ったことを思い出す。卵パックには残り二個、半切りの白菜に、オレンジ一つ。見失ってしまったが、大丈夫だっただろうか、あの男たちとウロはどういう関係なのだろう。


 スプーンとヨーグルトのカップを持って部屋に戻り、狭く開けてあった窓を閉める。おもての道の街灯が瞬いている。微かに軽やかな音楽とお喋りが聞こえてくるが、週末のパーティもそろそろお開きだろう。このシェアハウスには半年ほど住んでいる。郊外にある新しくはないが駅に近いアパートメントで、個室が持てるだけありがたい。市中に近いところでは家賃も高いし、一部屋を数人でシェアすることもままあるらしい。若い子たちはそれでも楽しいのだろうけれど、と年季の入った勉強机前に腰掛け、カップを開ける。


 こんなふうに思うなんて、自分は寂しいのだろうか。一人でいることには慣れているはずだが、オーストラリアは大き過ぎるし、日本は遠い。人間関係は往々にして煩わしい、だが、皆が孤独に耐えられるほど強くはなさそうだ。秋人はのろのろとヨーグルトを食べ終わり、取り留めのない思考を振り払うため、土ぼこり塗れなので床の角に放置されたままのジャケットと、ほか数少ない衣類をまとめて、明日洗濯しようと立ち上がった。

「え? どうして」

 驚くと日本語に戻ってしまう。持ち上げたジャケットの内ポケットに、何か入っていることに気が付いた。時々Opal(乗車カード)を入れっぱなしにしてしまうことがあるのだが、それとは違う。取り出してみれば、あのオパールだった。秋人は日本で会社勤めをしていた頃から、ここぞという時の運の無さは折り紙付きなのだが、これはあまりに酷すぎやしないか。

 あの男たちが逃走に紛れて秋人のポケットに忍びこませたのは間違いない。これは犯罪幇助になるのだろうか、事実を言って警察は信じてくれるだろうか。あの女性捜査官に掛け合えばどうにかしてくれるだろうか。男たちの仲間が取り返しにやってくる危険性も有る。しかし−と秋人はオパールを見直した。あなたは、どうしたいのです? 言い当たって、内心首を捻る。自分は誰に問い掛けているのだ、このオパール にだろうか。覗き見れば、まるで湛えた涙に月光が揺れているようだ。還りたいのだろうか、何処かへ。


「アキト・オノ、付き合ってもらおうか」

 学費だけで貯金がほとんど底をついてしまったので、生活費の足しにアルバイトは欠かせない。秋人は日本食レストランのキッチンハンドとしてこの数ヶ月働いているのだが、翌日理由を話して青なじみの残る顔を見せたら、オーナーに微妙な気遣いをされてしまった。週始めは特別混まないし、早めに上がっていいよ、ということで、ディナーシフトの片付けの途中で抜けて駅へ向かう道すがら、呼び止められた。あまり人通りの多くない道を選んで、フードを被り俯き加減に急いでいた秋人が顔を上げると、ファー付きのダウンジャケットにスリムパンツというシルエットが暗がりから歩み出る。

「どなたですか」

「昨日パディントン・マーケットで会っただろう」

 艶やかに浮かび上がるプラチナ・ブランドに、秀麗な鼻梁、切長の眉、アイスグリーンの瞳、薄い唇が不本意に歪む。見覚えのある容貌に、しかし、秋人は驚嘆のあまり顎が落ちかかる。

「でも、女性でしたよね!?」

「私のことを性別で判断しないでもらおうか? 保守的だな、日本人は」

 昨日は確かに化粧をしていたし、ウェーブのかかったロングヘアを緩く纏めて、タイトスカートにタイツを合わせていた。秋人は困惑にじりじりと後ずさるが、美男はじりじりとにじり寄る。

「どうして俺のいどころが分かったんですか? 何の用です? ウロは無事なんですか」

「昨日身分聴取されただろう。捜査に協力してもらう。あいつは頑丈だから放っておいても大丈夫だ」

 のっぴきならない距離まで詰め寄られて、秋人は美貌の圧力に押し倒されそうになる。こちらの質問にはきっちり答えているが、有無を言わせない。目を合わせられると、もう逸らすことができない。エメラルドに封じられた氷の竜が怒り狂って吠えているような視線と声で、心まで束縛されてしまいそうだ。最後の力を振り絞って、秋人は掠れ声で叫んだ。

「ウロに会いたい、それからです」

 掻き消えそうな秋人の反駁を聞き取って、美しき錬金術師はますます不満だというように、優雅に腕を組んで鼻を鳴らした。

「私の美しさにひれ伏さないでいられるとは、やはり素質持ちだな。来い、みっちり躾けてやる」

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