第2話 呼び声

 ウロ。


 秋人が買ってきたバゲッドをもりもりと平らげながら、少年は自分をそう呼べと言った。二人は建物裏のベンチに腰掛け、秋人は濡らしたナプキンで頬を冷やしている。眼鏡の蔓は見事に歪んでしまった。レンズが割れなかったのは不幸中の幸いである。学生ビザではメディケア(公的健康保険)に加入できないので、眼鏡を作り直すとエラい金額になる。それに長年連れ添った眼鏡には、思い入れが湧くのだ。

「助かった」

 どうもかなり口数が少ないらしく、ペットボトルの水を飲み落ち着くと、ペコリと頭を下げてきた。あまりにも良い食べっぷりを感心して見ていた秋人は、姿勢を戻す。

「さっき一体何が起こったのか訊いてもいい? あのAFPと連れ立っていた女性とは知り合いなの?」

 ウロは少し躊躇するかのように眉を顰めたが、またあの大人びた−尤も歳は知らないが−溜息を吐くと、黒のコートをはたいて話し出した。

「オレたちは、石を探しているんだ」

「石?」

「専ら宝石とか貴石とか言われるヤツだ。知ってるか知らんが、石は記憶する」

 謎かけのようだ、『石は記憶する』? 目を瞬かせる秋人に、ふん、と鼻を鳴らして腕を組み、ウロは訥々と話し続ける。

「石は見聞きしたものを蓄積するんだ。特に宝石や貴石みたいに人の側に置かれているものは」

 あまり突飛なことに理解が追い付かない。『呪われたダイヤモンド』なんて言い回しは聞いたことがあるが、都市伝説だと思っていた。ウロは少し考えるようにすると、その眼鏡貸して、と秋人に尋ねる。黒光りする真っ黒な瞳が、伸び放題の前髪の間から、上目遣いに見詰めてくる。秋人はまた居た堪れないような気分になって、傷の多い己れの眼鏡を差し出した。

 ウロは体躯に比べて長く皮膚の硬そうな指先で丁寧に秋人の眼鏡を受け取ると、何事か口の中で呟いた。先程までバゲッドにかぶりついていた、若いが血色の悪い唇が、牡丹色の息を吐いた。秋人は目を疑う。まるで舌に火が宿ったかのように、ちらちらと紅い輝きが薄く開けられた口元から見える。その小さな炉が、秋人の眼鏡に吹きかかる。

「……朝食はコーヒーとトースト、フリッジの卵パックには残り二個。白菜半切りとオレンジ一つ。眼鏡いいな、よく見える」

「ちょっと待って、何で知ってるの!?」

「だから石が、レンズが記憶してるんだよ」

 信じる信じないは勝手だけど。と秋人に眼鏡を返しながら、つまらなそうに言う唇は、もう元の色に戻っていた。

「そんな話聞いたことない。でもウロは事実を言ってると思う」

「石の記憶を見る必要のあるヤツなんて限られてるからな。マリーは犯罪捜査のために使うんだ」

 マリーというのは恐らくあのAFPと行動を共にしていた美女だろう。警察にそんな特殊捜索部署があるとは初耳だ。

「あのオパールを探していたの?」

 自分の見聞きしたものを覚えているとなると、どこかいじらしい眼鏡だが、秋人は蔓を力任せに押し戻す。ウロは秋人のそぞろな言葉にしかし、目をぱちくりとさせた。

「やっぱり分かるんだな」

「あ、そうだ、さっきも言っていたけど、分かるって何が」

「石の記憶だよ。でなきゃ、何で“あのオパール”って思うんだ?」

 眼鏡をかけ直し、秋人は小首を傾げた。そう言われればそうかもしれないが、たまたま平台の上で、あのペンダント・ヘッドが印象的だっただけのような気もする。

「石の記憶を理解するには、適性と鍛錬が必要なんだ。西の錬金術士、東の煉丹方士の役割だ」

「じゃあウロも方士なのかい」

 ウロは明らかにアジア系の面立ちだ。秋人はそちら方面の事情に詳しくないのだが、歴史上確か錬金術は黄金をつくりだすために、煉丹術は不老長寿の薬をつくりだすために、物質の分解と再統合を実証的に行おうとした人々である。目的は今だに達せられていない訳だが、影から化学の進歩に随分貢献してきたのだという。ウロの視線が微妙に流れる。

「まあ、そう……」

 歯切れの悪い語尾が、はっと呑み込まれる。広場の柵の向こう、車道の反対車線に黒塗りのバンが停車した。体格の良い男たちが降りてくるのが、茂み越しに見える。ウロはベンチから立ち上がり、秋人に振り返る。

「アキト、知らない振りをしろ」

 炎のかき消えるような声音に、秋人はその背を追いかけかけようとしたが、黒い旋風はあっと言う間に広場を抜けて、人混みに紛れてしまった。

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