サザンクロス・ナイツ
田辺すみ
あかつきのダウンアンダー
第1話 かけら
陽射しに雫がきらきらと瞬いて降る。狐の嫁入りだな、と秋人はストールの屋根下へ身を滑り込ませた。シドニーの天気は変わりやすい。せっかくひさびさの休みなのだが、秋人には先立つものが何も無い、つまりお金も無いし、家族もいないし、ここには一緒に出かける友人もいない。日本で三十まで勤めて、体力的にも精神的にも惰性と慢性の行き詰まりといったところに、会社の業務縮小で自主退職圧力が強まり、遂に諦めてしまった。そのまま一人暮らしのアパートに引っ込んでいると、もう、気持ちが塞いでいくばかりなので、なけなしの貯金をはたいて、オーストラリアへの留学を決めたのだった。
結局モラトリアム期間というやつなのだが、将来の展望が無さすぎて、逆に清々しい。オーストラリアの突き抜けるように青い空と、海と花々に囲まれていると尚更だ。人様に迷惑をかけずに、こっそり生きていればいいのじゃないかと思える。まあ、ちょっと哺乳類からも鳥類からも脱線しているが、里山の川べりでひょっこり見かけるカモノハシみたいなものだ。カモノハシという動物はオーストラリアにしか生息してない絶滅危惧種なのだが、想像以上に小さくて身近で可愛い。ということで、珍しくアルバイトのシフトも入っていないこの日、秋人はパディントン・マーケットへ足を伸ばすことにした。
「……不思議な色ですね」
瑞々しい野菜や果物、多種多様なワイン・ジャム・チーズ・ハム・ブレッドにビスケット、おしゃれな手工芸品、キルトにドレス、ミニ・ギャラリーにおもちゃ、幌を掛けたストールが木漏れ日の下に立ち並ぶ。売り手と買い手のお喋り、子どもたちの歓声をぬってあてどもなく歩いていたら、お天気雨に遭ったのだ。たまたま人気の無い広場の片隅で、身を寄せた小さなストールの平台には、アンティークの小物がところ狭しと置かれている。古銭から、既に使われなくなったノスタルジックな缶詰ラベル、色褪せたネックレスチェーンと指輪、象嵌の手鏡に小箱、ミニチュアール、大小のコンパス、拡大鏡と、賑やかに散りばめられたなか、渡人はペンダント・トップのようなものに目を留めた。
「オパールだよ。綺麗な遊色(playing fire)だろう」
人の良さそうな主人が相槌を打つ。秋人はオパール の“遊色“という形容を知らなかったが、明るい水底のようにゆらゆらとした輝きは、誰かの名を囁き呼んでいるようだった。実はそいつには言われがあってね、大富豪が隠し持っていた最高級のプレシャス・オパールから切り出されたものらしい。主人の売り言葉を聞きながら、渡人は思わず手を伸ばして触れようとした。
「ミスター、それは私のお気に入りなのです」
雨に煽られ、このストールに立ち寄ったのは秋人一人だったはずだ。突然現れた人の気配にぎょっとして振り向くと、煌びやかなほどの美女が傍らに立っていた。陽光を弾くブロンドにアイスグリーンの瞳が、こちらを見下ろして微笑む。カーキのジャケットとブーツ、そしてその長身に、コーラルのルージュが恐ろしく似合っている。秋人が呆然とした一瞬、ぐいと腕を掴まれ前のめりに引き摺られた。情けなくも平台の上に倒れ込み、眼鏡が跳んで、小物がバラバラと宙に舞うのが見える。胸元を打ち付けて、息が詰まる。ストールの背後から別の男が駆け出し、支柱を蹴り倒した。幌が落ちてくる。美女が舌打ちをして後ずさった隙に、店の主人だった男と隠れていた男は、道端に止めてあったモーターバイクへ向かって走り出していた。地面に這いつくばっていた秋人は、咄嗟に上体を起こして、男の脚を抱え留めようとしたものの、頬を強打され、力が萎えてしまう。
「返せ」
と、旋回する視界の角から、鴉のように滑り出した影がある。既にモーターバイクに跨っていた男二人に突進すると、黒いコートの下に備えていた分銅付きの鎖のようなものを払って、小円を描いて叩きつける。喉元胸元に弾みのついた分銅が鈍い音を立ててヒットし、男二人は呪いの言葉を吐きながらよろけた。黒い影は主格らしい男を蹴倒してうつ伏せに地面へ押し付けると、耳元に何か問いかけているようだった。
「AFP(オーストラリア連邦警察)だ!」
騒ぎに駆けつけた人ごみをくぐって、AFPの数名がなお逃げ出そうとするもう一人の男を取り押さえる。黒のコートは、暫く押さえつけた男が身につけているものを探っているようだったが、あの美女が歩み寄ってくるのを認めて、立ち上がった。
「コイツ、持ってないぞ」
奇妙な二人が対面に並ぶと、黒コートを纏っているのはまだ少年かという年頃に見えた。目にかかるほど伸びた黒髪は手入れもされずバサバサで、黒のコートも背丈にダブついているように見える。ハイネックもジーンズもスニーカーも全身黒だが、どことなく煤汚れている。美女は無感情な視線で黒の少年を見た。
「あんたが邪魔するからでしょう、今ストールを捜索中だから」
傍らで座り込んでいた秋人には尋ねたいことも、抗議したいことも山ほどあったのだが、頭がぐわんぐわんと鳴って声が出ない。美女は取り付く島もなく、踵を返していってしまった。少年は視線を伏せて小さく溜息を吐いたようだったが、腰が砕けている秋人に気がついて、近寄ってきた。
「大丈夫か。災難だったな、巻き込まれて」
立てるか、と手を差し伸べられる。揺れる前髪から覗く大きな瞳は、烏羽のように真っ黒だ。秋人は気恥ずかしくなって、もごもごと礼を述べると腫れ上がった頬を隠してなんとか立ち上がった。少年はやはり秋人よりも少し背が低い。見上げられるように真っ直ぐな視線が、驚いたように輝いた。
「お前、“分かるのか“?」
何を、と秋人が問いかけようとした言葉を遮って、晴天の下ぐううと少年の腹が鳴ったのだった。
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