桃太郎現代――生前 作:西山太一
——頭の中に果実を思い浮かべてみる。例えば林檎。赤色、丸型。容易に想像はつく。
しかしまだそれは想像というよりも、幻想の段階にしか過ぎないのではないか。森羅万象の中から、林檎というものを見つけてさっと手に取るために最低限必要な情報。それは林檎でありながらも、なぜか林檎の味がしない幻想なのだ。想像はその上を行く。
幻想という霧のようなものをギュッと凝縮して、できるだけ実体化させて、両手のひらにボトッと落としてみる。重量感とともに身の詰まりを感じる。芯から伝わる不気味な低温、ツルツルしてツヤのある表面。両手のひらに包まれているそれをじっと見ていると、その表面は決して赤一色ではないことに気付く。赤と黄の混ざったその斑な色合いは、どんなに腕の立つ画家が描こうにも、決して表現し尽くされない神秘性を常に内側に秘めている。絶対に人が立ち入ることのできないような、立ち入ってはいけないような、神の領域。
切り分けたうちの一つをつまむ。シャリッ、という食感は耳にまで響いてくる。咀嚼するたびに口に広がる林檎の味、鼻に抜ける風味。キリっと筋の角ばった黄色い固形物が、口の中でかみ砕かれる。細胞は破壊され、そこから出た果汁がのどを降りていく。
こうして細かく細かく林檎を想像したとき、それは結局私の実体験をもとにした記憶に過ぎないのであって、その想像の正確性は私がこれまでどれほど林檎に触れてきたのかという、経験のストックに依存していると思う。
共働きの両親のもとでは、長女の私が夕飯を作っている。小学五年生あたりからお米の研ぎ方や包丁、火の扱い方などをお母さんに教わり、徐々に任されるようになった。
中学三年生のいま、平日は毎晩私が作っている。カレーの日は林檎が出るというのが佐々木家のルールで、これまで何度も手に触れ、包丁で皮をむき、切り分けてきたから、私の中で林檎は確立している。私の中に、林檎がある。だから私の林檎は、限りなく本物に近い林檎なのだ。
ザッザッザ。雑草の上を歩いて近づいて、しゃがみ込み、まじまじと全体を観察した。それが本物なんだと直感した。
桃。
桃を触ったことはないし、皮をむいたことももちろんない。実際のところ、皮をむいて食べるものなのかどうかもよくわからない。六つ下の弟が、どうやら桃アレルギーなのだ。卵も牛乳もなんでも大丈夫な宏樹が、まだ幼稚園に入りたてぐらいのころに桃を食べ、「のどかぁゆいぃ~」と喚いて以来、佐々木家では桃は出ていない。その時食べた桃にも 問題があると思ったのか、お母さんは食卓に出ていた桃を全て取り上げてしまった。お母さんにはそういうところがある。まだ私は食べる前だったから、一口も口にしていなかった。食卓に並ぶフルーツとして、桃は意外と出にくいものだ。その時まで桃を食べる機会のなかった私は、初めて桃を食べるチャンスを得たものの、それも取り上げられてしまった。だから私はこれまでの人生で、一度も、桃に接触していない。
丸型、ピンク。
桃を頭の中に思い描くことは何となくできる。でもそれは味のしない幻想。林檎とは違って、食べたことがない味を想像するなんてどうしたってできない。
桃。
そんな桃が、いま私の目の前にある。それは人工的な造形物には決して見えない、赤とピンクの混合に神秘性が保たれた桃という果実。何となく、生きていると感じずにはいられない一つの生命のカタチ。
ありえないほど大きいのだけれど。
——五分前——
橋を渡っているときだった。蝉の鳴き声もまばらになった夏の終わりの夕方。黒巣(くろのす)中学校から家に帰るには、黒巣川に架かっている黒巣橋を渡らなければならない。河川敷にランニングコースやラグビー場、野球場、サッカーコート、公園などが作られているような立派な川で、そこに架かる黒巣橋も、百メートルぐらいありそうな大きな橋だ。町から町へ架かるその黒巣橋は、車やトラックの行きかう喧騒の重みを、毎日支えている。
私は部活をやっていなかったけれど、周りの友達は知らない間に徐々に引退し、今となってはもう全員引退している。日を追うごとに気温が低下していき、受験の気配がしてくるにもかかわらず、部活からの解放感に身を任せて放課後に遊びに行く者もいれば、遅れを取り戻そうと教室に残って勉強をする者もいる。
私は中学に入学したころから、放課後六時まで教室で勉強して帰るということをしていた。夜ご飯を作るということを考えたら、それまでの二時間ぐらいはそうしたほうがいいと思ったからだ。教室は部活の練習から命からがら抜け出してきた友達のたまり場にもなっていたから、おしゃべりも多かったのだけれど。何はともあれ、その甲斐あって学年ではずっと一番の成績だ。このまま順調にいけば、学区内トップの高校へも行けるのだが、いろいろ悩むところもある。
今日もそうやって、教室で六時まで勉強をして(最近はほとんど友達に教えて)、帰っていた。夕飯は何にしようかと考えながら。
黒巣橋を渡っているときに右に浮かんでいる夕日が、私は好きだった。海の上でオレンジ色に空を染める、あの夕日が。それを眺めていると、勉強をして凝り固まった脳がほぐされていくような気持ちよさに、私はつい目をつぶってしまう。できればこうして目をつぶったまま夕日のほうを向いて、瞼の裏からその柔らかなオレンジとぬくもりを感じていたいのだけれど、それは恥ずかしくてできない。知っている誰かにその姿を見られるのを危惧しているのか、その行動自体が恥ずかしいものだと思い込んでしまっているのか。いずれにせよ、そうすることに抵抗を覚えるのが、思春期なんだと実感する。
ふと左の河川敷のほうを見てみた。先の見えないところまで伸びているランニングコースは川から少し離れた場所にあって、川との間には青々と雑草が茂っている。橋の下あたりはあまり整備されていないのか、結構伸びている。
橋の上を歩いている私の影がその雑草の上をでこぼこと滑らかに移動しているのを見ながら、私はなぜかサスペンス映画を思い出す。動いている自分の影をそうして目で追っていたら、ふと白色の物体に自分の影が当たるのだ。雑草の中に白という色彩の変化が妙で、えっ、と思いよく見ればそれは女性の死体で、悲鳴を上げたらそこから物語は始まる。そんな私はそれで出番終了のただの脇役なんだけど。ていうかそんな映画、ほんとは見たことないんだけれど。
今日はうどんかな。
歩きながら、そう思った。何となく、うどんの気分だ。脳が、欲している。あの温かいおつゆがのどを伝って、胃の形を露わにしながら放出する美味しさには、疲れた心も体もほっとさせるものがある。野菜も、ネギくらいですむ。宏樹は典型的な野菜嫌いだし、小三といえば微妙な反抗期だ(と思う)。頑なに野菜を食べたがらない。両親が帰ってくる前に食べるから、さらにわがままは増す。私としては、お母さんにかまってもらえないのが不憫な気もするので、ある程度のことでは怒らないようにしているのだけど。そもそも、あまり弟に怒りを覚えたことがない私は、少し変なのだろうか。六歳も年が離れている宏樹を見ていると、忘れかけていた自分の中の幼稚な部分を思い出すから、懐かしい感じがする。たった六年前の小学三年生のことなのに、懐かしさを思える。なんて変だな。私って寿命短いのかな。こうやって考えちゃうのも、思春期なのかな。
今日も宏樹は自分のネギをお箸でつまんで、私がテレビを見ている隙に正面の私の器にさっと移すのだろう。……バレバレだけど。「何食わぬ顔」を演出しすぎていて、こちらは笑いをこらえるのに必死だ。今日もネギを入れてやろう。
何となく幸せな気分になりながら前を向くと、視界に妙なものを感じた。
ん?
思考の外でかろうじて「妙だ」と脳が勝手に判定したような、一瞬の出来事だった。視界に映った、というよりも、視神経が捉えた、というような、感覚的なものだ。
一体何が妙だったのか。
「何が妙だったのか」と数秒前の頭の中を探ってみる。突発的に物事を忘れたときに、その前後の思考の連続性を頼りにして記憶を取り戻すように。
歩きながら何となく左のほうを見てみると、私の影は川の上を動いていた。青が刻々と黒みを帯びていく川の上を。
うーん。
何だったのか、と視線を歩いている正面に戻すその刹那、視線の先にある点と点との間に、確実な何かを見た。
やがて視線が定まると、「何、あれ」と口に出していた。
橋を渡ったほうの河川敷の雑草部分に、大きな桃が綺麗に置いてあった。置いてあった、というぐらい、綺麗にそこに置いてあった。
触ってみる。手のひらを大きく広げて、秘密のドアのロックを解除するようにそっと。何となく、そうしたくなった。本物の桃だと直感していて、ふつうはその大きさに驚き騒ぐべきことなのだろうけど。「こんなに大きな桃が! 黒巣川の河川敷で!」夕方の地方ニュースに出るのだ。大きな桃をビッグサイズに切り分けて、見つけた私がそれを食べて「普通においしいです」なんて。
それは何か、かわいそうだなと思った。
開いた手のひらから私の体温がじわーっと伝わっていくのを感じる。なぜだろう。このぬくもりがじわじわとずっとずっと奥に伝わって、何かとつながっている気がする。それは瞼の裏から夕日を見るのと同じようなぬくもり。心のぬくもり。私の心とこの大きな桃の心がぬくもりで繋がって、ホッとする。
何分間、そうしていただろう。できれば何時間でもそうしていたいと思った。それを誰かに見られるなんて、いまはもう何かどうでもよくなった。
不思議だけど、この桃はとても綺麗だ。何も汚れていない。泥がついていないとかそういう意味じゃなくて。例えるなら、人間の赤ちゃんのような綺麗さ。ゼロが一になったばかりの、ただそれだけの存在。二でも三でもなくて、ただの一。その綺麗さが、この桃にはある。
誰にも見られてはいけないような気がした。これも、思春期というもののせいなのか。この桃は、誰にも見られてはいけない。早くこの桃をどうにかしないと、誰かに見つかってしまう。いや、もうすでに多くの人の目には映っているのかもしれない。車やトラックの行きかう黒巣橋から肉眼で見えるところにあるのだ。でも、見つかってはいないのだ。本当に誰かに見つかった瞬間、もう一よりも大きな存在になってしまって、綺麗ではなくなる。そしてそれはもう二度と、私の前には現れてくれないのだ。大人が子供に戻れないように、もう二度と。一よりも大きくなってしまったら、一に戻ることは不可能なのだ。もしかしたら、UFOは存在するのかもしれない。地球にやってきた宇宙人と本当に仲良くなった人間が、世の中にはいるのかもしれない。でも、本当に仲良くなったら、その事実を誰かに言いふらしたりするだろうか。しない。故郷に帰った宇宙人の身の安全を、遠く離れた地球から切に願うだろう。本当に仲がいいのなら。
この桃は、誰にも見られてはいけない!
私は大きなその桃を、黒巣川に流した。そうするのがいいと思った。仲良くなった宇宙人を、安全な場所へと逃がしてあげるように。
かなり重かった。人がおしりをつけて座れるほどの大きさだ。できれば傷つけたくなかったから、持ち上げて運んだ。現実的なその重さは、不思議でもなんでもなかった。一つの生命のカタチなのだ。人工的な造形物には、絶対にない重さ。やはり本物なのだ。だからこそ、そのままでいてほしい。
やっと川に流すときになって筋力の限界がきて、最後の最後、乱暴に落としてしまった。途中で休憩を挟めばよかったものを、不器用にも走り続けて最後につまずく。誰も何も責めはしないけど、世界中で一番、私が私のことを責める。コンクリートの角にゴンと当たって、ひっくり返りながら大きな桃は川に落ちた。
あっ
と思った。
すごく自分は、罪を犯したのではないかと思った。桃は全体の八分ぐらい水につかったまま、微妙な浮力を保ちながらぷかぷかと流れていった。私は何か、取り残されたような気がする。大事なものを奪ったまま。
コンクリートの角に残された、えぐれた果実のリアルを目視したとき、すでにちらつき始めたアリの行列が、それを雄弁に物語っていた。でも蝕まれていく桃の断片、果汁は、どこまでも綺麗だった。
桃はどんどん流れる。もはや夕日はほとんど地平線に埋もれ、黒巣川はうねうねと黒ずんだ大蛇と化している。
黒い大蛇と化したクロノス川に乗り、地平線に沈む太陽のほうへ向かう大きな桃。
神話的だな、と思った。クロノスに乗るのは、子供のゼウス。あの桃はゼウスかな。ゼウスってよく聞くけど、何か神っていうイメージがとても強いな。あの桃は何か、そういう存在なのかな。
もうここからは見えない。桃はあのままぷかぷかと海へ出たところだろうか。海のほうがたぶん浮力は増すから、沈んでしまうことはないだろう。どこかの海岸に漂流物として打ち上げられるのか。木片とか、ペットボトルとか、あとよくわからないゴミで形成されているうるさいビーチには、できれば行ってほしくないな。
それにしても、なんでこんなに感傷的になっているのだろう。
これも思春期なのかな?
いったいどれほどそうしていたのだろうか。ずっと、沈んだ夕日のほうを見ながらそんなことを思っていた。ふと、ピントをもう少し手前にすると、黒巣橋を向こうへ渡る宏樹の姿があった。薄い生地のTシャツと半ズボンが妙にみすぼらしくて、心なしか、寂しそうな背中をしていた。ハッと思い、私は腕時計を確認した。七時前だった。
「宏樹——」
あわてて河川敷からまた橋へ戻り、宏樹の背中を追った。家から中学校へのルートだ。宏樹は私の声を耳にしたとたん、ぱっと後ろを振り向き、怒っているのか寂しがっているのか、安心しているのか、よくわからない表情をしてこちらへ歩いてきた。
「おそい!」
怒っているのか。
「ごめんごめん。ちょっとなんか」
えーっと、
「カメがね、あそこにいたから、川に流してあげてた。うん」
怒っていると膜を張って、安心している内面を悟らせないように必死で、私の話なんてほとんど耳に入ってはないだろう。ぷんすかぷんすかすたすたすたとあっけなく私を通り越して、今度は逆、家へのルートだ。
「どこに行こうとしてた?」
並行して歩きながらいたずらっぽく聞いてみたけど、ちょっと意地悪だったかな。虚を突かれ、しゅん、と目に見えるように、宏樹の怒りが縮まった。
「ん? ん~。うん」宏樹ははぐらかすのがうまい。
まあ、大方予想はつくけど、詮索はよしておこう。小三と言えば、反抗期だ。いつもと違ってなかなか帰ってこない姉を、家で一人で待つのが怖くなった感じかな。宏樹も男の子、面子というものがある。
「ちょっとスーパー寄っていこっか」
「えーなんで」
「まあまあ、ちょっと買いたいものがあるから」
いいけど、と返し、宏樹はアリーノアリーノと言い出した。最近よく家でも、言っているそのアリーノ。よくわからないけど、教室ではみんな言っているらしい。いいよ、みたいな意味だろうか。そんな造語が発明され出すのも、小学三年生辺りだったかな。私はついていけなかったけど。
「なに買うん?」
宏樹が訊いてきた。ちょうど橋を渡りきって、赤信号を待っているところだ。
「なんでしょうねぇ」
「ふーん」
アリーノアリーノとまた言い出した。やっぱり分からない。
「宏樹ってなんでも食べれるよね」
信号が青に変わった。
「まあね」と宏樹が返すと、すかさず「野菜は?」と私は訊いた。
うっ、と一瞬たじろぎ、小さな声で「ナイーノ」と宏樹は返した。こんなやり取りも、宏樹がもう少し大きくなったらできなくなるのかな。
信号を渡って少し歩くとスーパーはある。
私はそこで小さい桃を一つ買った。
2022年度・九州大学文藝部・新入生歓迎号 九大文芸部 @kyudai-bungei
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