第2話 真夜中の442Hz
「お、康則早いね」
午前1時半。マンション1階のエントランスで待っていると、エレベーターから美佳が降りてきた。半袖ポロシャツに短パン、サンダルという出で立ちだ。長い髪は束ねて髪留めで留めてある。
「まぁ家族ぐっすりだったし。美佳んとこは大丈夫だった?」
「うん、多分バレてない。でも部屋から抜き足差し足で外に出るの、結構緊張した。なんか泥棒になった気分」
「他の人の家に入るわけじゃあるまいし、なんで泥棒気分なんだよ」
「雰囲気だよ、雰囲気」
意味が分からない。そしてこの変人に付き合ってる俺はもっと意味が分からない。
エントランスを出て高校へ向かう。美佳がマレットを諦められなかったのには、家から近かったということもある気がする。電車に乗らないと行けなければ諦めがついただろうが、なんと徒歩15分でついてしまうのだ。
月明かりと街灯を頼りに俺たちは横並びで歩く。毎日通っている道なのに、夜中だというだけで全然違う道に見えた。車も通らないし、もちろん歩いている人もいない。なんだか世界中に2人だけみたいだ。
「なんか、世界中に2人だけみたいだね」
思ってたことが口から出たのかと思ったが、隣を歩く美佳の発言だった。俺より背が低い美佳は、明日演奏する課題曲のマーチを口ずさみながら屈託なく笑う。何がそんなに楽しいのだろうか。
「なぁ。ちゃんと反省してる? 俺一応怒ってんだけど」
「はい、それはもう、色々言ってくれたのに結局忘れ物をしてすみませんでした。あとついて来てくれてありがとうございます」
「まったく。明日寝坊したらどうしてくれんだ」
「起こしに行ってあげますよ」
他愛もない話をしていると、飛鷹高校が見えてきた。当然正門は閉まっている。奥にそびえ立つ校舎は真っ暗で、非常口を示す緑色の灯りだけが暗闇に浮かんで見えて、思わず足が止まりそうになった。
「さてここからどうしよう?」
美佳が閉まっている門を掴むが、開く様子は見られない。
高さは170センチの俺より10センチほど低い。登ってみるかと門の上部に手を掛けるが、腕に力は入らなかった。足掛けになるような段差も見当たらない。
「ねぇ。裏門なら入れそうじゃない?」
そう言われて裏門へ回った。確かに裏門は正門より高さが低く、よじ登れないことはない。さっそく手を掛けてみると、すんなり内側へ侵入することができた。後から美佳が続くのかと思ったが、何か思いついたのか門から距離を取る。そして、スマホを俺に向けたかと思ったら『カシャ』と音がした。どうやら写真を撮られたらしい。
「何した」
「ん? なんか牢屋に入れられたみたいだったから撮った」
全く意味が分からない。
それから美佳も門をよじ登り、不法侵入罪が成立した。
「あ。懐中電灯忘れた」
「スマホの懐中電灯モードがあるから大丈夫だろ」
「おお、天才」
靴箱で靴を脱いで裸足のまま校内へ入る。サンダルは手に持って行くことにした。真っ暗で人気がない廊下をふたつの薄い光で照らし、歩くとふたつの足音が響く。ペタペタペタペタ。
「廊下、冷たくて気持ちいいね」
「ちょっと寒い気もするけど」
「康則、もしかして怖いの?」
「怖くないと言ったら嘘になる」
「えー。楽しいじゃん。おばけなんてなーいさ、おばけなんてうっそさ」
「やめろ。響いて逆に怖い」
普段は人間がいるので音を吸収して声が響くなんてことはないが、吸収するものが何もない今の廊下は、歩く音さえも響いて聞こえる。響くので10人くらい連なって歩いているのではと勘違いしそうになるが、いるのは俺と隣を歩く幼馴染だけだった。
とっととマレットを回収してとっとと帰ろう。音楽室は4階の端っこにあるので割と遠い。階段に差し掛かると、美佳が「康則は私の後ろにいて」と言った。
「なんで」
「私が足を踏み外したら康則が支えないといけないの」
「義務かよ」
言われるがまま美佳の後ろに付く。全体重を俺に預けられたら支えられる自信がない、とは言わなかった。
窓のない階段は廊下より暗く、俺が足を踏み外しそうになる。後ろには誰もいないはずなのに、なんとなく背中がゾワゾワして気持ち悪い。振り返ったら負けだと思ったのでスマホの灯りを足元に照らし、それだけを見ながら上がっていった。
「康則」
「なに?」
「吹奏楽、楽しかったよね」
「どうした急に」
「いや……もし明日全国行けなかったら、明日で引退するんだなぁって思って。振り返ると辛いこともあったけど、やっぱり楽しかったことの方が大きくてさ……夜中だし静かだし、美佳ちゃんナーバスになってます」
2階と3階の踊り場で、美佳は俺を振り返った。表情を確認したかったが、暗くてよく見えない。スマホを美佳に向けるのは憚られて、隣に立った俺は仕方なくその頭に自分の手を置いた。
「全国行くために不法侵入までしてマレット取りに来たんだろ。あとは毎日一緒に練習してきた仲間と楽しんで演奏すればいいだけだ。楽しむのは得意だろ」
全国に行きたい気持ちは俺と美佳だけじゃなくてみんな同じだ。顧問の竹波先生だって全国に連れていってくれようと厳しく指導してくれた。放課後は下校時間ギリギリまで練習したし、合宿だってやったし、土日も休みはなく、1日たりとも練習をしなかった日はなかった。他校に負けないくらい俺らが一番練習してる。そう言い切れるくらいには練習した。美佳だっていつもできない所をできるまで練習して、毎日頑張っていた。部長としても立派に、とは言い難いが、まぁそれなりに部員を引っ張っていってくれていると思う。
だから大丈夫、不安になんてなるな。
心の中で思っていても口には出せないので、美佳の頭に乗せた手に念じてみる。大丈夫大丈夫、おまえなら絶対大丈夫。
すると俺の思いが通じたのか美佳が「聞こえる」と呟いた。え。とうとう俺は超能力に目覚めたのか。
「康則。何かが鳴ってる」
美佳はそう言って再び階段を上り始めた。どうやら俺の声が聞こえたわけではないようだ。
吹奏楽部というだけで他の部活動員から「耳いいんでしょ」といわれることがままある。【吹奏楽部=耳がいい】という方程式は、【バスケ部=モテる】や【卓球部=オタク率高い】といった方程式と同等で、実際はそうでもない。現に今、俺には何も聞こえていない。
「上だ……音楽室かな」
「おい、あんまり急ぐと躓くぞ」
「分かってる」
上るにつれて、美佳の言っている「何か」が俺にも聞こえてきた。4階へ着き音楽室へ近付くとその音ははっきりとして、さすがの俺にも何の音かが分かった。
「ハーモニーディレクターだな」
「そうだね。チューニングの音……442
ハーモニーディレクターというのは音楽指導者用の電子キーボードのことで、全員で音を合わせるチューニングの時に使用する。先にハーモニーディレクターから音を出し、それに合わせてみんなで音を調整するのだ。美佳のいうヘルツというのは1秒間に振動する回数を指す単位のことで、普通は音を聞いただけでヘルツ数は分からない。そしてB♭というのはピアノの音でいう『シ』のフラットのことである。
「なんで絶対音感持ってんのに打楽器なんだよ」
美佳が吹奏楽を始めたのは中学からだ。3歳くらいからピアノをやっていて、絶対音感という音を聞いただけで何の音か分かるという特技を持っている。それなのに管楽器を希望せず打楽器をやっていることに、俺は常々疑問を抱いていた。
「
要するにピアノを弾くだけでは飽き足らず、鍵盤が叩きたかったということらしい。美佳は逆に俺に質問してきた。
「康則こそなんで吹奏楽部に入ったの? 中学の時はサッカー部だったのに。メキメキと上達して2年の時からコンクールメンバーに選ばれてるし」
「いや、別に、サッカー飽きたし、楽器吹けたら、カッコいいだろ」
「ふぅん……」
康則は女の子にモテたかったんだね、となんとなくトゲのある言い方をされた。どんな目をしているのか暗くてよく見えないが、視線が痛い。
なぜ俺がサッカー部から吹奏楽部に鞍替えしたのか。そんなの理由はひとつしかない。この幼馴染──美佳がいたからだ。そばにいたいというよりも、同じ景色が見たかった。
それに、「吹奏楽部に入れ」と中学の時毎日のように言ってきたのは美佳の方だ。興味なかったのに色々な高校の定期演奏会に連れまわされたり、楽器屋さんに付き合わされたり、「康則はトロンボーンが似合いそう」などと散々持ち上げたのはこの幼馴染なのだ。
……自分で誘っといて「なんで吹奏楽部に入ったの?」って。ひどい話だ。
音楽室の前まで来たが、鍵がかかっていた。そういえば鍵はいつも職員室で借りているんだった。鍵が開かなきゃ話にならない。
「これじゃあマレットも取れないぞ」
せっかくここまで来たのに収穫なしで帰るのか……すると隣からチャリン、と音がした。見ると美佳が何かを持っている。
「なにそれ」
「なにって、鍵だよ康則君。私を誰だと思っているのかね」
美佳は何の迷いもなく鍵穴に差し、音楽室のドアを開けて中に入っていった。
いや待て待て。なんで美佳が音楽室の鍵を持ってんだ? 俺は慌てて美佳を追いかけた。
「うるさいので切りまーす」
プーと鳴り続けていた音がプツっと消える。ついでに美佳はコンセントも抜いて「これで安心」と隣の音楽準備室へマレットを探しに行った。
「おい。なんで美佳が鍵持ってんだよ」
「なんでって、もしかして私が部長だってこと、忘れた?」
「いや、だからって鍵持ってるのはおかしいだろ。今、職員室には無いってことだろ?」
「ノンノン康則君。これは代々受け継いだ合鍵なのですよ」
あったーこのマレットだぁ、と美佳は歓声を上げた。
「合鍵?」
「そうだよ。なにかあった時用に代々受け継がれてるの。年に1回はこんな感じで夜中に忍び込むことがあるから、念のためにって」
なんだそれ。受け継がれる伝統がおかしいだろ。大会前日に忘れ物をして真夜中の学校に侵入するのが代々受け継がれてる? とんだ部活動だな。
「さ、康則。帰るよ」
まるで俺がマレットを忘れて美佳が仕方なくついてきたみたいな言い方をされた。すっげぇ腹が立ったので美佳のスマホを取り上げた。
「おまえは明かり無しでひとりで帰れ」
「え、嘘でしょ。待って待って! 怖くないって言ったけど、康則がいてくれたから怖くなかったわけで、いなくなったら怖いんだよぉ」
スタスタと歩き始めた俺の背中に、情けない声が届いた。思わず立ち止まる。
なんだ。俺について来て欲しかったのか。
ガチャガチャと音楽室に鍵を掛けた美佳が小走りで俺の前に来て、俺の服の裾を握る。
もう聞こえないはずの442Hzの音がした。
「美佳」
「なに?」
「マレットは?」
「……あ」
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