真夜中の442Hz

小池 宮音

第1話 真夜中の忘れ物

 全日本吹奏楽コンクール東京支部大会を明日に控えた午後11時。出番は午前中なので集合時間が朝7時と早い。緊張と興奮が入り混じった感情の中、俺は寝ようとベッドに潜り込んだ。


 この支部大会を突破すればいよいよ全国大会だ。去年はこの支部大会で金賞を獲ったものの、全国大会へは出場できなかった。もう高校3年生なので来年のチャンスはない。


 受験生であるので大概の高校は夏で引退だが、全国大会は10月に開催されるので出場が決まれば引退はしない。そうなると文句を言う親も出るらしいが、そんなの知ったこっちゃない。


 全力でやりたいことをやっているんだ。親なら応援してくれ。そして、俺らは何も考えてないわけではない。自分のことは自分がよく分かってるし、将来のことは自分で決める。


 とにかく我が飛鷹ひだか高校吹奏楽部は全国大会へ行くのだ。


 夏の夜は窓を閉めていてもカエルやら鈴虫やら色々な虫の声が聴こえる。風邪を引かないようにと冷房の温度を28度に設定し、目を閉じた。


 ふう、とひとつため息をついた時、マナーモードにしていたスマホがブブブ、と震えた。誰だこんな時間に。


 手を伸ばして着信相手を確認すると『小野田美佳おのだみか』と表示されていた。仕方なく応答ボタンをスライドする。


「もしもし? どうし……」

『マレット忘れた』


 食い気味で要件を言われ、よく聞き取れなかった。何を忘れたって?


「はい?」

『マレット忘れた』

「…………」


 俺の担当楽器はトロンボーンといって、他の楽器はピストンやキイ自体を押さえて音を変えているのに対して、スライドを動かすことによって管の長さ自体を変化させて音の高さを変える金管楽器だ。電話の相手、幼馴染の美佳は打楽器を担当している。マレットと言われてすぐにピンとこなかったが、それが何であるかを思い出した瞬間、絶句してしまった。


「おまえ……」

『言いたいことは分かる! 私も部長の立場でみんなに忘れ物はないようにって注意したし、康則やすのりは私に忘れ物はないかって聞いてくれたし、ちゃんと確認したつもりだったんだけど、どうしてもあのマレットだけがないの』


 同じマンションに住む美佳は幼稚園の時からの幼馴染で、同じ吹奏楽部に入っている。昔から運動会や修学旅行、大会など大きな行事の時には必ずと言っていいほど忘れ物やミスをする、正真正銘のアホだ。


 今日だって部活動の帰り際に忘れ物はないかと、作ったリストとカバンの中身を一緒に照合したのに。これで部長を務めているのだから、任命した先輩の目は節穴だったかもしれない。


 ……ん? 待てよ。マレット? 


「マレットって、一緒に確認した時入ってたよな。トライアングルのバチと一緒に」


 マレットというのは木琴や鉄琴を叩くときに必要な、棒の先に毛糸が巻いてあるバチのことだ。それなら俺は見た。


『違うマレットなの。これじゃなくて、もうちょっと柔らかいやつ』

「いや、でも、もうしょうがないだろ。学校開いてないし、明日の集合場所は駅前だし」


 明日は学校が廊下の工事をするので、1日開かないらしい。だから打楽器やチューバなどの大きな楽器は今日のうちにトラックへ搬入した。学校に入れないとあって顧問も忘れ物はないか、忘れ物したらタダじゃおかないぞと脅していた。


『そうなんだけど……』

「諦めろ。あるマレットで叩け」


 俺は打楽器奏者じゃないから分からんが、正直どのマレットで叩いてもそんなに大差はない気がする。別に打楽器がメインの曲をやるわけでもないんだし。


 明日早いんだから寝るぞ、と言って電話を終わらせようとしたら、美佳はボソッと呟いた。


『行くしかない』

「は? 行くってどこに」

『学校』

「だから、開いてないって……」

竹波たけなみ先生が言ってた。「もし忘れ物したら、夜中に学校に忍び込むしかない」って』


 竹波先生というのは顧問の先生のことだ。確かに脅す目的でそう言ってたけど、実行に移す奴なんているわけがない。だって、真夜中の学校だぞ? 死んでも行きたくない!


「何言ってんだよ。寝言は寝て言え」

『寝言じゃない! 本気で言ってる。ねぇ、ついてきて』

「嫌だね。第一見つかったらどうすんだよ。大会自体出られなくなるかもしれねぇんだぞ」

『それは大丈夫。見回りは午前3時らしいから、それまでに入って出れば問題ない』


 いや問題ありまくりだろ。やっぱアホだな。


 俺はこれ見よがしにはぁ、と大きなため息を吐いた。


「あのな、美佳。明日は……」

『康則は全国行きたくないの?』


 説得しようとしたら遮られた。俺は思わず「そりゃ行きたいよ。それ目指して今日まで頑張ってきたんだし」と答える。


『私も行きたい。1年の時はせっかく全国行けたのにレギュラー落ちして行けなかったのが悔しかった。去年は全国にすらいけなかった。最後の今年は、絶対に全国行きたい。それしか考えてこなかった』


 コンクールには大編成のA部門、中編成のB部門、小編成のC部門の3部門あって、俺たちはA部門に出場する。そのA部門に出場できる人数は最大55人と決まっていて、うちの飛鷹高校吹奏楽部はずっと60人を超える部員数だ。オーディションでふるいにかけられるので、当然出られない人も出てくる。年功序列ではなく完全に実力順なのだが、美佳は1年生の時大会に出場できなかった。(俺もだけど)


 せっかくレギュラーになれたので全国には行きたい。でも、それとマレットを取りに行くということと、どう関係するのだろうか。


『全国行くためには、あのマレットじゃないとダメなの。竹波先生が言った、あの柔らかさのマレットじゃないと、ダメなの』


 マレットごときで何言ってんだと思っていたが、美佳は不安なのだ。もし全国に行けなかったら、違うマレットで演奏した自分のせいだと、多分一生後悔するだろうと恐れている。アホだけど、その分繊細だった。


 しかし、それとこれとは話が別である。


「大丈夫だ。マレットが違っても指揮者の竹波先生にしか分からない。それにたとえ全国行けなくても、それはマレットのせいでも美佳のせいでもない。審査員のせいだ」


 とにかくこいつを落ち着かせて、何としてでも説得しないと。


 実際、全国に行けるかどうかは数名の審査員の判断に委ねられる。点数制で内訳は技術と表現。人間が審査するので、やはり個人の好き嫌いがあると思う。毎年大会の結果に文句をつける高校が出ていたりする。仕方のないことではあるけれど。


『康則……』


 俺の思いが通じたのか、美佳の声は少し落ち着いたように聞こえた。よし、このまま諦めさせて……


『分かった。ひとりで行く』


 全く通じていなかった。


「バカ、ちょっと落ち着けよ」

『落ち着いてるもん。康則が言ったようにマレットがないって気付いた時は他のマレットがあるしいいやって思ったけど、でもやっぱりあのマレットじゃないと叩けないの』

「分かる。分かるんだけど、時間を考えてくれ。早く寝ないとそれこそ明日の大会に影響する。朝早いし。時には諦めも肝心だぞ、美佳」

『…………』


 考えているのか、黙ってしまった。午後11時過ぎともあって、リビングにいる両親はそろそろ寝るのか、テレビの音がしなくなった。


 どうか納得してくれ、と祈る気持ちで目を瞑ると、『いいよ、ひとりで行ってくる』と寂しそうな声がした。


 だーっもう! 俺の優しさに漬け込んでくるなよ!

 俺は大仰にため息をついた。


「……何時?」

『え。一緒に行ってくれるの?』

「こんな時間にひとりじゃ危ねぇだろうが」

『むふふっ。ありがと、康則』


 電話越しなのに嬉しそうにする顔が見えて、諦めるのは俺の方だったと思い知った。

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