第三話「回復」

弥生はで髪を後ろで結び、年齢は一平と同じくらい。爽やかな笑顔が素敵で、とても優しそうな人だった。

「あ、よろしくお願いします」

僕は緊張しながら、応えた。

「じゃあ、後は任したね佐藤ちゃん!」

先生はそう言うと頭を掻きながら忙しそうに部屋を後にした。


 弥生と僕だけになり、弥生が明るい声でこう言った。

「さて、リハビリは今日が初めてだし、無理のない所からやって行こうね!一平君」

テーブルの上に、赤くて丸い、手の平サイズのゴムボールを置いた。

「このボールを掴んで私に渡す作業。ゆっくりでいいからやりましょう」

「あ・・・はい。やってみます」

僕は、言われるがままに何度もボールを左手で掴もうとする。

だけど、僕の意思とは別に左手は肩からピクリとも上がらない。

しばらく様子を眺める弥生そして一言。

「じゃあ、左手の、どの指でもいいから動かしてみて。焦らずにね?」

僅かに小指と薬指が辛うじて動くが、他の指は全く動かなかった。

ここまで動かなくなっているとは・・・絶句した。

僕は予想を遙かに超える現実を受け止められずに、悲しくなってしまった。


元々、何でも諦める癖がある僕は、気が滅入ってしまってやる気がなくなっていた。

「よし!二本の指は動くね。上出来だよ。それをゆっくり繰り返してみて!」

明るい笑顔で優しく弥生がほほ笑む。

「どこが、上出来だよ・・・」

と僕は心で呟いて、投げやりな気持ちになっていた。

この手指は、絶対に動くことはないと思った。繰り返しの練習も1時間もやっていると物凄く体力を消耗した。自分の背中に汗が滲んで滴り落ちるのがわかる。

明らかに疲れ果てた僕を見て、弥生が椅子から立ち上がる。

「今日は初日だしこのくらいにしておこう。焦らずゆっくりやれば絶対に動くようになるからがんばろうね一平君」

そう言うと、弥生は病室まで付き添って見送ってくれた。


翌日も同じ訓練を弥生と行うが、一向に改善しない。

疲れきっている一平を見てまた優しい笑顔で弥生が言う。

「絶対に動く様になるから信じて頑張ろう。木村先生は優秀な外科医なの。だから一平君の左腕の手術は、絶対失敗してないからね」

弥生が僕の肩を後ろから軽く叩く。リハビリってこんなに辛いのだと心底、実感した。数十分で汗だくになる・・・。果たして動くようになるのだろうか・・・?

どんなに力を込めても重くて微細にしか動かせやしないこの指。

もはや、絶望を通り越してぽっかりと心に穴が開いた。

それでも毎日、僕の病室を訪ねてくる弥生の明るい笑顔に釣られて、半ば惰性のようにリハビリ室に通う日々が続いた。


 どの位、リハビリをしただろうか。季節はもう冬になっていた。病室の窓越しに映る四角い景色には粉雪が降り、木々を白に染めていた。

僕はもう、リハビリを半ば諦めかけていた。

こんな左腕は、飾りとして着いていると思えばいい。もう動かなくていいや、と。

いつも通りのリハビリでボール握りをしている。

掴んでは握力がない為、1秒も持っていられないで手からスルリと落ちる。

変わったのは2本指から5本が僅かに動く様になっただけであった。

 ある日、リハビリ中にボールを落とした時、今までの鬱憤がついに爆発してしまい、

「もう嫌だ、無駄なんだよこんなの!」

僕はそう叫びながら、悔しさを込めた右足で思いっきり天井に向かってボールを蹴り飛ばしてしまった。

そのボールが強くバウンドをして近くでリハビリしていた幼い少女に当たった。瞬時にずっと見守って支えてくれた優しい弥生が、初めて顔色を変えて怒った。

「一平君、まずあの子に謝りなさい」

厳しい口調で弥生が静かに言った。僕は我に返り、少女に駆け寄り謝った。

少女は大丈夫、と笑みを浮かべて、自分のリハビリを続ける。


弥生が僕の眼をしっかりと見て語りかけた。

「いい?苦しいのは一平君だけじゃないの。一平君は5本の指が僅かに動く様になったよね?すごい成果なのよ、わかる?」

そして、先ほどボールが当たってしまった少女を弥生が見つめる。

「あの娘はね、先天的に足が不自由で5年かけてやっと歩けて来たの。あっちのおじいさんは悪くなる一方・・・でもね、皆ひたすら頑張っているの。」

「一平君さ、最近自分に甘えてない?」

弥生が僕に視線を戻してそう言った。

「わかっています。僕が根性無い事は。昔からなんでも長続きしないから・・・」

僕は、肩を落としながら弥生から気まずくなり視線を反らした。

自分の不甲斐なさも、何をしても上手くいかず駄目な自分が嫌いだ。甘えていることだってわかっている。

―———それが、自分に対するいつもの言い訳っていう事も。

「今みたいな事はやめよう?どうしてもがんばれなくて、そのままでいいなら退院していい。他の患者さんに迷惑だから」

「でも、わかっているなら一緒にがんばろうよ!ね?」

弥生の厳しさと優しさの混じった言葉が僕の心を一閃する。暫く何も言えなかった。

周りの皆に申し訳ない事を今まで無意識にしていたんだ、自分だけが不幸だって決めつけていたんだと思うと、情けなさで胸が一杯になった。

いつしか僕の両目から涙が溢れて止まらなくなっていた。

そんな僕を見て、弥生が頭を撫でてくれた。

「今日は休もう。そして何年かかってもいいから諦めずにゆっくり進もう。私も頑張るからさ」

弥生にそう言われて、僕は泣きながら無言で何度も頷いた。


 四角い窓の向こう側は桜の花びらが、ひらひらと舞っている。

リハビリ室で僕は、いつものように左手でボールを掴んだ。

何度か繰り返しているうちに、ふと、今日は指の感触がいつもと少し違うと感じた。


――――――全力で集中してこのままいけば行けるような気がする。

離さないでこのままボールを弥生の手に渡すことが出来ればいいんだ。

必死の形相で無我夢中で指先に全力で集中してボールを掴む。

僕と弥生の空間を、ゆっくりと動いていく。


そして、赤いボールは弥生の手のひらに・・・ボトリと落ちた。


初めてボール運びに成功したのだ。

弥生が涙ぐみ、なんとも言えない笑みを浮かべ僕を見つめた。

「出来たね!ね!頑張った甲斐があったよね?」

「は・・・はい。弥生さんのおかげです」

照れながら答えたが、嬉しさで胸がいっぱいになってきた。

――――やった、僕にも出来た・・・。

僕は大粒の涙が溢れて止まらなくなった。嬉し泣きってこういう事を言うんだなって初めて思った。

弥生のおかげで難しいことを諦めないでやり遂げることを初めて学んだ僕。

そして弥生の理学療法士としての真摯な仕事へのひたむきさと、厳しくも温かい心を理解した。


 あぶら蝉が鳴き、強い陽射しがジリジリと肌を照らし、うだるような暑さだ。

昨年の今頃はクーラーが欲しいと言っていたっけ。入院してから1年が経とうとしていた。

僕の右腕には義手が装着されていて、リハビリを重ねて左腕と指はある程度は動く様になり、晴れて退院許可が下りた。

長いようで短かった病院生活とも今日で最後になった。

「退院おめでとう!一平君。がんばったね!」

弥生が花束を渡しながら嬉しそうに僕の左手に握手をしてくれた。柔らかくて温かな手だった。

木村先生が握手をしながら笑顔で、

「これからが大変だぞ。なんか辛い事があったらいつでもおいで。佐藤ちゃん目当てでもいいからな」

冗談交じりにそう言った。弥生ともお別れかと思うと寂しいな。

「みなさん本当にお世話になりました!本当にありがとうございました」

他のスタッフさんの方々にも感謝の挨拶をして、僕は病院を後にした。

長いこと入院していたから家族のように見守ってくれたこの病院に感謝すると共に、後ろ髪を引かれるような寂しさが募ってくる。

 しかし、苦難のリハビリを終えてようやく自宅に帰る事が出来る。

――――その頃には、介護ロボットの話などすっかり忘れていた。


 帰り道、見慣れたいつもの景色がだんだんと目に映る。安堵の気持ちと懐かしさとで心が躍った。入院生活で体力は落ちているものの、足が自然とぐんぐん前へ進んでいく。

やっと念願のアパートに帰って来た。やっぱり住めば都だよな!

「やっと帰ってきたー、自分ち最高!」

左ポケットからどうにか鍵を取り出して、何とかドアを開けようとする。リハビリをしたとはいえ、もともと右利きだし何もかも時間がかかる。それでも宝箱を開けるかのような気分で高揚していた。15分ほどかかっただろうか。

カチャリ。

やった、ドアが開けられた。そして、一年ぶりの我が家のドアを開いた。

・・・予想外の光景に6畳一間で一平が叫ぶ。

「なんじゃこりゃああ!」

見渡すと部屋一体の埃・・・食いかけのカップラーメンが未知なる物体になっているし、布団もカビ臭くてとても人間の住む所とは思えない。

うっわ、そういえば家賃も滞納だ。どうしよう?頭が真っ白になって何から始めていいかわからず、途方に暮れかけているところに

――――後ろからドアを叩く音がした。

                                    続く

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