幕間1 現実世界で

 ――"あなたは誰。あなたは何者"


 フィールド探索をおもに、およそ2時間の配信を終えたところで、わたしは今一度精神の海に意識を沈めた。

 暗い、暗い。

 真っ暗な世界でしかし、わたしという影は目の前にたたずんでいる。


 だからそれを引き剥がした。


 配信中に感じた楽しいことも嫌なことも、切り離した瞬間何も感じなくなった。

 それから今度は、元の人格を作っていく。


 ――"れは何者か"

『生きるフリをして死に往く人形』

 ――"れは何を望む"

『生きる意味と死ぬ理由』


 ぺたり、ぺたり。

 自分という人物像で精神を塗り直す。


 1年前、VTuberを辞めなかった未来への夢想。

 ぺたり。

 未知の先へと進んだ同胞に対する憧憬の念。

 ぺたり。

 勝負ごとに対する勝気な姿勢。

 ぺたり。


 まるで新聞スクラップだ。

 自分が歩んだ人生、他人を観察して得られた気づき。

 それらを継ぎ接ぎして『自分』という化けの皮テクスチャを作り直す。


 さて、改めて問おう。


 ――"汝は何者ぞ"

『俺は……』



 意識が浮上する。

 ヘッドギアタイプのVR機器は11時半を指していた。


 なぜサービス開始と同時にプレイし始めたのに昼前になっているかと言うと、パンドラシアオンラインはイギリスで開発されたゲームだからだ。

 向こうは0時スタートでも、こっちは9時スタート。

 時差があるから、もう昼前なのだ。


「昼のラッシュ前にコンビニって思ったけど……」


 つい昨日までずぼらな男だったのだ。

 冷蔵庫を開けても食材なんてあるわけないし、なんなら冷凍食品すら切らしていた。


「……やべえ、顔隠してもわかる圧倒的美少女オーラ」


 薄手のパーカーにそでを通してフードをかぶる。

 TS時に体格が一回り小柄になったせいもあり、かなりぶかぶかだ。

 おしゃれに気をつかう人間でもなかったし、コーデとしては残念賞。

 それなのに、フードの隙間から覗くグラデーションがかった銀髪が、袖口からちょこんと出た細い指が、ダボついた衣服の上からでもわかるスレンダーな体系が、目の前の美少女をごまかせない。


 あーでもないこーでもないとうんうんうなっている間に時間だけが過ぎていく。40分を過ぎ、50分が過ぎ、いよいよもって決断を迫られる。


「ぐぅぅぅぅ、もうこれで行くしかねえ!」


 どうか何事も起こりませんように!




「やべえ! めっちゃタイプ。ねえどこ住み? てかラインやってる?」


 絡まれた。

 不良に。


 ちくしょうぅぅぅぅぅ‼

 ふざけんなよ!

 1年この町で過ごしてきたけどこんなに治安悪くなかっただろ!

 なんでよりによってこういう輩がコンビニの前にたむろしてるんだよ!


「え、えと、あの」

「うひょおおお! 声かわい過ぎんだろっ! この後カラオケ行かね? 大丈夫! 何もしないからさ!」


 下心丸見えで吐き気がした。

 獣みたいな性欲にまみれた目で舐めまわすような視線向けられると、影が縫い付けられたみたいに体が動かなくなった。

 声もまともに出てこない。


「ゃ、ぃゃ」

「ぐへへぇ、聞こえないなぁ?」


 落ち着け、落ち着け。

 女性の体になって、精神が引っ張られてるんじゃないか?

 もう一度、今度は男性恐怖症じゃない人格をトレースして……。


「触れるな下衆が」


 伸ばされた手をぺちんと振り払う。

 不良が「あ゛ぁん?」とドスのきいた声を響かせて、こっちを睨みつける。


 うおおおぉぉぉい⁉

 俺まだ人格作り直してないよ⁉

 何があった⁉


「嬢ちゃん、自分の立場わかってる? 俺がその気になったらその奇麗な顔をズタズタにしてやることもできるんだぜぇ?」


 怖いよ! 逃げよ、逃げよう!

 俺のアパートオートロックないけど、鍵かけて警察呼べばどうにかなるはずだからさ!


「貴様こそ立場をわきまえろ。頭が高いぞ」


 ひぃぃぃ!

 ごめんなさい嘘ですそんなこと微塵も思ってないんですだからその振り上げたこぶしを収めてくださいお願いします何でもしますからぁ‼


「んだ……と……ぉ? あ? ああん?」

「……へ?」


 祈りは、天に届いた?

 拳を固めたナンパ男は、そのまま拳を下ろした。

 だけではなかった。

 なんとあろうことかその場に膝をつき、こちらの靴を舐めようとしている。


「やめろバッチイ」

「はい。承知いたしました」


 ……こわ。

 ひたすら頭を垂れ続けてるんだけど。

 なに、ゾンビウイルスでも注入された?

 自意識どこに追いやったの。

 俺が言えたことじゃないけどさ。


「俺は昼飯買わないといけないからどっか行っててくれる?」

「はい。仰せのままに」


 不良はそういうと、うつろな目のままふらふらとどこかへ去って行った。

 なんだったんだ、いったい。


「っと、それより昼飯昼飯」


 店内は女性の店員さんがいるだけだった。

 ほっと胸をなでおろし、四川風麻婆豆腐焼きそばとチキンサラダを買った。


「うーん」


 あの男の方もそうだけど、俺自身もおかしかったよな。俺の意思とは無関係に体が動いたっていうか。


「そういえば、空を飛んだ時もそうだったんだよな」


 自分という人形に繋がれた糸を、天から誰かが操るような感覚。そういえば、あの時聞こえた声は何だったんだろう。


「もしかして、昨日刺された蜂が原因だったり?」


 俺は昆虫には詳しくないけれど、ほぼすべての昆虫には対応する寄生蜂が存在するという。

 だとするなら、人に寄生する蜂がいてもおかしくない。


「なんてな」


 仮にいたとして、その蜂はもう潰したじゃないか。

 性別が切り替わったのも、俺の意思と無関係に動く体も説明がつかない。そうだろ?


「それより、はやく続きをやらないと!」


 家に引き返した俺は、再びパンドラシアオンラインの世界へダイブするのだった。

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