16.天を裂く龍
視界の全てを白く染める天の裁き。
大気中を震わせた雷光の残滓がミーシュの周囲にまとわりついていた。
額に浮かんだ汗を拭い去り、すぐにアイアスのそばまで駆け寄った。
大きな外傷はない。ただ、意識が朦朧としているのか、瞳を開いてはいるが返答はなかった。
呼吸はしている。不自然に早くなったりもしていない。気を失っているだけ、という事実に安心すると、ミーシュは風の力を上手く使い、アイアスの身体を持ち上げる。
(すぐに診てもらわないと……)
アイアスの腕を持ち上げ、首に回し、背負うようにしながら、自身を包む風により支える。
すぐに住民たちの集まる場所へと飛び立とうとしたミーシュの足元が崩壊する。
地震を彷彿とさせる大きな揺れに襲われ、平衡感覚を失ったミーシュは体勢を大きく崩す。
辛うじて、纏っていた風を地面に吹かすことで着地の衝撃を和らげることができた。
アイアスを背負ったまま、土煙の奥に光る二つの赤い点を見つめる。揺らいだそれが線を描き、やがてまた点となる。
左右からミーシュを押し潰さんとばかりに伸びてきた翼を躱し、もう一度屋根の上に着地する。
大きく翼を振り回し、煙を払うと、浅黒い肌に焦げた跡を残した魔女がこちらを睨んだ。
ミーシュの扱える技の内 《雷》 は威力が高く、範囲も広い。しかし、周囲に及ぼす影響も絶大で、地面を大きく抉りとり、脆いものだと簡単に塵になってしまう。
瓦礫を踏み砕き、翼から生えた腕を口元に伸ばして血を拭うと、魔女の周りの空気が変わる。
「痛ってぇなぁ……! アタシの綺麗な顔に何しやがる!」
「その方がずっと綺麗じゃないの」
無数の赤い弾が魔女の背後に浮かび上がる。
大きさは石ころ程度だ。しかしそれに込められた濃密な力の気配は侮ることができない。
背後にいるアイアスを確認すると、ミーシュはもう一度詠唱する。
「欲するは《氷》!」
「灰燼に帰せ、《紅蓮弾》ッ!」
炎と氷が衝突する。
蒸気が視界を曇らせていく中、ミーシュは溶けた箇所から氷を何層も重ねていく。アイアスにもミーシュにも直撃しない箇所は放置し、致命の一撃になり得る場所にのみ集中を割く。
舞い上がった煙と水蒸気で視界が覆われ、咄嗟に顔を覆う。戦闘において、一瞬でも目を離すということがどれだけ危険なことか、ミーシュは理解していなかった。
だから、魔女がどこに消えたのかなど気づけるはずもなかった。
「いっ――――」
天地が逆転する。
屋根の瓦をいくつも吹き飛ばし、転がっていく。身体の自由が効かず、受け身も当然取れないミーシュはそのままの勢いで民家の隙間に落ちていった。
壁に背中を打ちつけ、呼吸が苦しくなる。息苦しさの中、地面への落下だけは防ごうとして、風で着地する。
立ち上がって追撃を注意しようにも、全身から訴えてくる痛みに耐えられない。
腹部を抑え、地面の上に蹲っていると、翼を広げた大きな影に飲まれる。
「っ、ぁ……欲するは……《氷》……」
痛みに意識が持っていかれている状態での技の行使は不完全に終わる。
炎の弾を防いだ氷の壁とは違い、酷く薄いものだったが、攻撃の軌道を逸らすことだけはできた。両隣の民家に衝突し、瓦礫と土埃が降り注ぐ。
爆風を利用した風で身体をすくい上げると、細い路地から這い出でるように上へと上がる。
地面に立っているよりも、空を舞っていた方が些か楽だった。
「……アンタ、何者? 複数系統の魔術行使なんて――」
「うる……さい……。 《
目には見えぬ風の刃。獣に噛みちぎられたような傷跡を残せるほどの威力が込められているそれを六発ほど生成し、撃ち込む。
全てを躱すことは難しく、大きすぎる的である翼に命中する。
人の腕が飛び散る様は直視できるものではなかったが、痛みを訴えて叫び声をあげる魔女の姿は爽快だった。
「アタシの腕が……!」
「その腕……全部落とせば綺麗になるんじゃないかしら」
「お前ェ! 絶対に殺す!」
「やって……みなさいよ。 あなたには絶対殺されてやらないけれど」
「生意気な――」
そのとき、ミーシュも魔女も同時に動きを止めた。
遠くにいるのにも関わらず伝わってくるほど大きな気配。肩を押さえつけられるような重圧にも感じられる。
そして二人が見たのは教会のある方角。
ミーシュの脳に嫌な想像が過ぎるが、すぐにそれが魔に属する気配ではないことを悟ると、一人の男の顔が思い浮かぶ。
「……何、この気配」
「勇者様モドキが本気を出したみたいね」
「――は? 勇者ですって?」
「知らなかったの。 あの気持ちの悪い腕の魔女ももういないかもね。 お仲間でしょ? 心配ね」
「心配? まさか。 ラッキーだと思っただけ――よッ!」
魔女の速度が上がる。
詠唱は間に合わない。
風で身体を押すことで魔女の突進を躱し、続く右腕の攻撃も風で身体を運ぶことで躱す。が、躱した先を予測して魔女は赤い弾を置いていた。
「――っ、《氷》!」
歪な形の氷の壁がミーシュの前に作られたが、いとも容易く砕かれる。
直撃するよりも威力は抑えられたが、それでも馬鹿にできるようなものではなく、身体は簡単に吹き飛んだ。
(っ――やっぱり、詠唱しなきゃ、完全には使えない……)
風の次に慣れているのは氷だが、風とは違い自身の身体の一部のようにまでは生み出せない。
(ダメージ的には私が押されてる……。 けど――)
再び眼前に迫った魔女の腕を上方向に躱し、《風刃》で一撃加える。
切り飛ばした腕から鮮血が吹き出し、周囲の腕が痛みに喘ぐように指先を動かした。その様が魔女の物とは思えず、本当に人間の腕を切り飛ばしてしまったかのような気持ち悪さを覚えてしまう。
腕全てが、まるでこちらを見る目のように動くと、ミーシュに狙いを定めて、伸びた。
予測もしていなかった攻撃をまともに受ける。痛みで熱を持った腹部に拳が入り、逆流した血が口から零れる。
呼吸のしずらさに咳き込み、残っていた血液を吐き切ると、やつれた瞳で前を見た。
身体は常に痛みを訴え続けている。
風で支えていなければ、こうして動かすこともままならない。
動く度に刺されたような鋭い痛みが走るが、そのおかげで意識を失わずに済んでいた。
「イドぉ、こっちはもう終わりそぉ」
頬まで裂けたような気持ちの悪い笑顔を貼り付け、魔女は余裕たっぷりに誰かと会話しているようだった。
『イド』と呼ばれているのはミーシュが最初に見た腕が細く、手が異常に大きな魔女のことだろう。
「――え? 連れてくの? これ? なんで」
疑問を浮かべた魔女の表情は次の瞬間に怒りに染まる。
ミーシュの挑発にも度々怒りを見せていたが、それの比ではない。全身を突き刺すような殺意。呼吸が困難になるほど喉が締め付けられ、空気を求めて喘ぐ。
逃げろ、と身体に命令を下すが思うように動かない。
当然だ。攻撃を受け続けたせいで身体はまともに動かない。頼りの風も殺意に充てられ、集中を乱されるせいで精度が落ちている。
「――ちっ。 アンタ如きがイドに気に入られるとか、訳わかんない。 殺したい、けど殺したらイドに嫌われるし。 それは、嫌だけど。 でもぉ、自爆したって言えばぁ、なんとかなる、かなぁ」
上がらない腕を無理やり上げ、両の手のひらを魔女に向ける。
掠れる視界で前を見据え、震える声で詠唱を始める。
残された体力を考えて、今ミーシュが出せる最大威力を用意する。
「欲するは……《雷》」
赤に染った空に黒雲が立ち込める。
大気を震わせる大きな音を鳴らし、空が揺れる。
その様子にただならぬものを感じた魔女は、すぐにその詠唱を止めるために突進した。
一度詠唱を中断し、魔女の攻撃を避ける。
詠唱の中断は可能。だが、中断した時点から再開するまで、自身の身体の奥底に眠る魔力が際限なく吸われていく。
早々に再開しなければ、魔力が尽きてこちらの敗北――すなわち、死だ。
死んだって構わない。
そう思っていた自分が死なないために力を使うなんておかしな話だ、と内心で笑う。
『リオドールさんって、子どもいたの!?』
『あれ? 言ってなかったっけ? ミーシュよりも二つ歳上のお姉さんさ。 次の休みの日は遊びに連れてく約束をしててね』
『いいな。 私も遊びに行きたい』
『……ごめんね、今の僕では君をここから出すことはできないんだよ』
『……うん、わかってる。 けど! いつか、もしもここから出られたら――』
幼き日の記憶。
幼少の頃に唯一、ミーシュが心を開いた男だ。
研究員でありながら、ミーシュの実験に最後まで反対し、ミーシュの逃走を手伝ってくれた男。
『こんな職をしているからね。 結婚なんて考えてもなかったんだけど、困ってるところを助けたらなんだか友達になっちゃってね』
『友達?』
『そう、友達。 一緒にいたら楽しかったり、なんでもないことで笑えたりする相手のことだよ』
『勇者様とは違うの?』
『ははっ、勇者様とは違うさ』
『わたし、勇者様とともだちになりたい』
男から渡された、勇者の物語を綴った子ども向けの絵本。
そこに描かれていた物語の主人公は弱きを助け強きをくじく。全ての人を助けようと手を差し伸べるその姿は、まさに理想の主人公だった。
何度も何度も文字が掠れてしまうほど読み返した絵本。目を輝かせ、男が来る度に読み聞かせてもらっていた。
枕の下に隠したその絵本を月明かりを頼りに読み返したこともあった。
文字など読めはしなかったが、描かれた力強い勇者とその仲間たちに希望を抱いた。
いつの日か、自分を救けてくれる勇者が現れるのだと。
『そうだね、ミーシュがいい子にしてたら勇者様みたいな人が現れるかもしれないよ』
目を丸くした男はすぐに微笑む。
『ほんと?』
『ああ、そうだとも。 きっといつか素敵な人に出会えるよ』
『……? 勇者様じゃないとダメ』
『ははは、そうだね、勇者様じゃないと僕の大切な娘はあげられないな』
『うん!』
硬い手のひらの感触。
優しい声。
柔らかな瞳。
手入れする暇もなく、刺々しく生えた髭。
決していい匂いではなかった薬品の香り。
胸元に着けた三つの星の紋章。
全部覚えている。
記憶の奥底に封じ込めたと思っていても、忘れたいと願っていても全て覚えている。
忘れることなどできるはずもない。
(リオドールさん、見ていて)
魔力が吸い取られていく間に見えた過去の出来事。
かつてミーシュを娘と呼んでくれた男に恥じないように、胸を張る。
(こいつを倒して、私は……前を、向こう。 まだ、難しいかもしれないけれど、でも、友達になりたいって言ってくれたから……)
頬を撫でる熱風。
紅蓮に包まれた大きな両翼が、魔女の前で交差し、一つの大きな炎を柱を作り上げる。
無数にある腕が一つ一つ指を組み、ミーシュを叩き落とすために振り上げられる。
「叩き潰れて、死ね」
「あなたこそ、上に……注意しなさい」
頭上に広がる黒雲が渦を巻き、空を飲み込むように大きく広がる。
「……天候を!」
「蒼炎なる雷火、《
炎を纏った雷が顔を見せる。
大きく口を広げた龍のような姿。目元の炎に標的である魔女を捉えると、咆哮のように空が鳴いた。
渦を巻いた巨大な龍が、その姿を現す。
降り注ぐ無数の雷を背に受け、己の身体をさらに大きくさせていく。
炎の槍のような鋭い爪、何者をも噛み砕く雷の牙。
――そして、天が落ちた。
「――――《黄昏の」
飲み込まれた魔女は叫び声を上げることもなく、龍の怒りに焼き殺される。
「がっ、は……これで、終わ……り……」
ミーシュの身体はゆっくりと地面に落ちていく。
少しだけ残した魔力で風を纏い、着地の衝撃を和らげたのだ。
だが、それ以上の魔力はない。無論、動けるほどの体力もない。
未だ意識を保っていられるのが不思議で仕方がないほどの重症だ。
雷火の龍が弾け消えるのを見届け、ミーシュの瞼は閉じていく。
「――イ、ド……ごめんな、さい……」
翼が焼け朽ちた異形の魔女は、それだけ呟くと自身の影から伸びてきた細い腕に飲まれ、消えていく。
勝者は一人、瓦礫の上で眠りについた。
◆
「……ちっ、向こうは終わったみたいだ。 死ぬ前に影に入ったみたいだが、だりぃなァ。 こっちももう終わらせるか、なァ、ボロ雑巾」
地に伏し、首を差し出すような姿勢のティゼルを見下し、異形は笑うこともなくそう告げた。
抵抗する気力も、立ち上がる気力も湧いてこない。
「期待外れもいいとこだなァ。 じゃあな、勇者。 くたばれや」
両腕が醜く発達した魔女は、吐き捨てるようにそう呟いた。
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