7.聖女ライラ
恐ろしく天井の高い一室。上を見上げれば、女神グヴィレイアとその妹であるシゼレイアが、かつてこの大聖堂のあった場所を根城にしていた邪龍を諌める絵がタイル状で描かれている。
さらに二つの玉座の上には青と白で女神グヴィレイアを象った大きなステンドグラスが太陽の光を受け言葉通り、神々しく輝いていた。
見る者が見れば、感涙に咽ぶような光景。
敬虔な信徒であってもこの場に足を踏み入れられる者はいない。
聖騎士の中でも上位の者や、聖女ライラに連なる者でしか立ち入りを許されない聖域。
そんな場所であることなど、当然知らないティゼルは周囲の景色に目を向ける余裕など持ち合わせてはおらず、ただ気まずそうに顎を引いて目の前に立つ聖女ライラを見ていた。
「聖女様……に、おかれましては――」
「そんな、お堅い挨拶なんていらないわ。 そうね、こんなところでは話しにくいのなら、話しやすい場所に移動しましょう」
そう言ってライラは視線を右に向ける。
ティゼルも釣られるようにライラと同じ方へと視線を向けると、広い謁見の間の壁際にここの入口とは比べ物にならないほど小さな扉があることに気がついた。
「普段は隠してあるのよ? あの大きなカーテンでね」
ライラが指を指したのは真紅のカーテン……と呼ぶには些か大きすぎるものだった。
天幕と呼称した方がそれらしいとティゼルは思ったのだが、ここの主がそういうのであればそうなのだろう。
ライラがそちらへ歩いていく姿を遅れて確認すると、ティゼルは少し早足でその後を追った。
「ここはね、私の私室に繋がる通路なのよ。 一々遠回りしてあんな大きな扉から入るのは面倒だ〜って昔言ったら造ってくれたの」
「そ、そうなのですか……」
話の規模が大きすぎるため、相槌も曖昧なものになってしまう。
先まで見てきた廊下とは違い、派手な絨毯も、過度な装飾も施されていない簡素――村にあったどれよりも綺麗なものだが――な造りになっている通路を歩く。
「さっ、入って」
エイルの部屋と同じものと思われる扉を開くと、謁見の間ほどではないが、大きな空間が広がっていた。
本棚や机、テーブルにソファ。よく見れば、部屋の中央にあるものよりも小さいが、窓のそばにも椅子とテーブルが置かれており、そのどれもがティゼルでは手も届かないほどの品なのだろうとわかるほど綺麗なものだった。
窓のそばにある方の椅子へ座るライラ。空いたもう一方の席に座るべきなのだろうが、一応ライラの表情を確認する。
どうやらそれで正解のようだ。
ぎこちない動きで椅子を引き、ライラと向き合うような形で座る。
慣れない部屋に初対面の人と二人きりというのはどんな場面であっても緊張するが、目の前にいるのが聖女であり祖母であるという点がその緊張を助長する。
「……いきなり、おばあちゃんなんて言われても驚くわよね」
話を切り出したのはこの部屋の主、ライラからだ。
本来ならば地位のある人物にこうして気を遣わせて話させるなどあってはならないことなのだろうが、現状においてティゼルはそこまで頭が回っていない。
「まず、貴方に……いいえ、ライゼルと貴方に会いに行かなかったこと謝罪します」
「そんな! 謝罪なんて!」
「ありがとう。 でも、私は親として、家族としてあの子に何もしてあげられなかった。 だから、まずは謝罪を」
当然、今この場にいるライラは聖女という一国の主であることに違いはない。
そのライラが頭を下げるということがどういう意味か、考えるまでもない。
「あ、頭を上げてください……」
「ごめんな――いいえ、ありがとう」
「……正直なところ、祖母が生きていて、しかも聖女様だったなんて知らなかったんです。 だから謝られてもその……身に覚えがないと言いますか」
事実、ライラの謝罪が意味する本当のことなどティゼルには思いついていない。
ライゼルの存在を知っておきながらあの村に何もしていなかったことを詫びているのだとすれば、それはライラが頭を下げるようなことではない。
勇者の息子であったはずのライゼルが、あんな辺境の村に住み着いていたのには何か訳があるに違いないだろう。
そのことについても、そう決めたのはライゼル自身だろうし、ティゼルがライゼルによって強引な教育を施される結果になったこともライラのせいではない。
「あの子にとって、私はもう母ではなかったのですね」
「そんなことは――」
「ない」などと、無責任なことは言えなかった。
口で言うのは簡単だが、ティゼルは二人の背景を何も知らない。そして、事実としてライゼルはライラの存在を一度も語ったことがない。
口を引き結び、言葉を失ったティゼルが行き場がなさそうに視線を動かす。
「――こんな暗い話をしたかったわけではないないの。 この話はもうお終い。 そうね、貴方のことを聞かせてもらえるかしら。 村での生活はどんなものだったの? お友達は? 好きな子はいたのかしら」
悲しげだった表情を無理やり笑顔に変えたライラが、そのことを忘れようとしているのだろう、勢いに任せた様子でティゼルに尋ねてくる。
身を後ろに引きながら、ライラの問いかけに答えていく。
「村に子どもは俺以外いませんでした。 なので、ロイロさん――村長が遊び相手になってくれました。 他にも森の中にはたくさんいましたけど、あの村では本当によくしてもらいました」
それからしばらく、ティゼルは故郷で過ごしてきたことについて語った。
ロイロのことやダロスのこと。共に遊んでくれた村人や、森の動物たちのこと。
ライラは小さく相槌を打ったり、時折声を漏らしたりしたが、特に何かを言うこともなく楽しそうにティゼルの話を聞いていた。
ある程度話し終え、途中でライラの従者のような女性が用意してくれた紅茶を飲んでいると、「あら」とライラが声を上げた。
「その剣……」
「あ、えっと、これはですね……エイルにも何も言われなかったのでつい外すのを……」
「帯剣してることなんて気にしてないわ。 信用しているもの」
てっきり聖女の前で剣を持っていることを叱られるのかと思ったのだが、そうではないようだ。
思えばエイルも、あの真っ白な扉の前にいた聖騎士二人も気づいていただろうが何も言わなかった。
本来ならばありえないことなのだろうが、ティゼルがライラの孫であるからという理由なのか、許されたのかもしれない。いくら孫であってもそれは許されないことだろう、と心の中で吐き出しつつ、すぐに剣を外したが置く場所が見当たらない。
紅茶を用意してくれた従者もこの場にはおらず、さすがにテーブルの上や地べたに置くのもおかしな話だろう。
「それ、見せてもらえる?」
剣を持った状態で慌てふためいているティゼルを見かねた訳ではない。
ライラはティゼルの持ったその剣が誰のものであるのかをすぐに見抜いたからだ。
「これ……は、あの子にあげた……」
あまりに小さなその声は、未だに慌てているティゼルの耳には届いていない様子だった。
ライラは昔を懐かしむような、子を慈しむような笑みを浮かべ、剣を撫でる。
白いその剣はかつてライラが息子であるライゼルに贈ったもの。
勇者になるのだと息巻いていたライゼルに、ライラがこの国の職人に依頼して造らせた一品だった。
白銀の刀身は鏡のように輝き、目を細めたライラ自身が映し出される。刃こぼれひとつしていないのは、ライラのわがまま通りの依頼をこなしてくれた職人の腕によるもの。
「それは、父が持っていた剣です。 山羊頭――魔女との戦いにおいて、それが僕を守ってくれました」
「ライゼルがこの剣をまだ……」
涙ぐんだ様子のライラにティゼルは立ち上がるが、どうすることも出来ない様子でオロオロと情けなく手を動かしている。
「この剣は貴方が持っていて。 きっとライゼルが喜ぶわ」
白銀の剣がティゼルの手に戻される。
何が起きたのかいまいちわからなかったが、ティゼルが想像していたような悪いことは何もなかった。
胸を撫で下ろし、席に座るとライラが手を叩き空気を変える。
「さっ、まだまだ話したいことはたくさんあるわ。 この後の予定は何もないのよね?」
「え、ええ、そうだと思います」
「ならそうね、夕食の時間まで余裕があるわ。 貴方のことをもっと聞かせてちょうだい」
このあと、夕食までの数時間をティゼルはライラと共に過ごした。
ぎこちなさはあるものの、少しずつ祖母と孫に近づけたような気がしていた。
◆
「――だぁぁぁぁ!」
「甘い」
鈍い衝撃とともにティゼルは地面に転がる。
痛みを訴える脇腹を抑えながら立ち上がり、平然と立つ金髪の聖騎士へと訓練用の木剣を正面に構えた。
大聖堂に着いて三日。ライラとの謁見を済ませたティゼルは大聖堂への滞在をライラ本人から許可された。
滞在が許されたことは驚いたが助かる話でもあった。寝泊まりする場所が、このままではエイルの屋敷になるという話だったので、大聖堂の客室を用意してもらえたのはありがたかった。
慣れない部屋、慣れない街での生活は短いながらも、ティゼルにとってあまりいいものとは呼べなかった。
それを見抜いたエイルからの申し出により、こうして大聖堂に併設されるような形で建てられた聖騎士団本部、その訓練所にてエイルと組手をしている。
「感覚が鋭すぎるというのも考えものだな。 隙をみつけてすぐに飛び込んでくるのはあまり良くない」
「そんなこと言われたって、俺は戦闘訓練なんかやったことないんだ、勘でやるしかない」
「ただの勘でここまで動けるのなら、天才のそれだな」
天才と褒めるエイルだが、褒められた側であるティゼルは照れる様子もなく、逆に口を曲げた。
「こんだけ殴られて褒められても何も嬉しくねぇよ!」
ティゼルの動きは聖騎士と比べても遜色ないものだった。
元より身体を動かすことは得意であった。それに加え持ち前の感覚の鋭さがある。上手くそれらを使いこなすことで、訓練なしでもある程度動けるということは山羊頭との戦い以来、自分でも思っていた。
ここへ来て何人かのエイルの部下とも手合わせしたが、互角以上に戦えたという自負がある。
しかし、今目の前にいるエイルという聖騎士には勝てる気が全くしない。
いつもの鎧姿とは異なり、黒いセーターを着用している。身体の線を強調する服に、初めは目を奪われたものだが、戦っている最中はそんなことどうでもよかった。
むしろ、鎧姿ではないということはそれだけティゼルが舐められている証のような気がした。
「勝てる気がしねぇ……」
「当然だ。 私はこれでも一部隊を任せられた隊長。 その者が才能に任せて剣を振るう者に負けることなど万に一つもない」
いつもは付けていない黒縁のメガネを得意げに上げてみせるエイル。
その仕草がどこまでもこちらを下に見ているようで腹立たしかったが、事実エイルと比べてしまうとティゼルは格下なので仕方がない。
「何度も言うが聖装は使うなよ。 また一週間も眠られては困る」
「わかってる! お前は俺の……俺だけの実力で倒したい!」
「そうムキになるな」
エイルが危惧しているのは聖装の顕現による副作用。
あの山羊頭を容易に屠った超常の力はエイルにも説明済みだ。アレを使ったあとどうなったのかもある程度――ロイロやダロスから聞いた話だが――言ってある。
山羊頭との戦いのあと、ティゼルはすぐに目を覚ましたのだと思っていたのだが、一週間も眠っていたらしかった。
今使っても一週間眠る結果になるのかはわからないが、実験するつもりにはなれなかった。
「まだやれるだろう? 来い」
「言われなくても――ッ!」
土埃を上げ、突進。
木剣を振り上げる。何度も突進と攻撃を繰り返し、エイルの懐に潜り続けてはいるが、一度も攻撃を当てられた試しはない。
上段からの一撃をエイルは涼しい顔で受け止める。
こちらは両手で全体重を乗せているのに対し、エイルは片手で引いた様子もない。
その余裕の表情を少しでも崩してやりたい。
ティゼルの中にあるのはこれだけだ。
勝利することはまだ叶わないため、せめて一矢報いたいのだ。
「何度も繰り返せば私が疲労すると思ったか?」
そんな甘いことは考えていない。
ティゼルは「ここだ」と剣に込めた力を緩め、滑り込むようにしてエイルへと潜り込む。
完全に無防備な身体。これならば、と身体を捻り、遠心力に任せた蹴りをエイルの腹部目掛けて打ち込む。
――が、
「殺すつもりか?」
その蹴りは空いていたエイルの左手で容易に受け止められた。
石になったかのように動かなくなった自身の右脚を軽々と持ち上げ、球のように投げ飛ばされる。
「ば、馬鹿力が……」
「軽いな。 もっと筋肉を付けろ」
「エイルの力に合わせて筋肉付けてたら肉だるまになるっての!」
「それもそうだな」
身体は痛むが立ち上がれないことはない。
しかし、無策に飛び込めるほどではない。
こちらから攻めてばかりで、エイルは最初に立った位置から動いた様子はない。越えられない戦闘能力の差に悪態をつきながらも、まだ心は折れていない。
「たまにはエイルが来いよ! 一回くらい本気で相手してくれてもいいんじゃねぇの?」
挑発と呼ぶには弱すぎるが、相手の本気を知りたいのは事実。
このままではただ嬲られるだけで、エイルの力の底を見ることは叶わない。
ならば、と持ち出した言葉をティゼルは数秒先で後悔することになる。
「いいだろう」
「来やが――」
「れ」と言い切るよりも早く、目の前まで迫ったエイルの眼光に睨まれ身体が硬直する。
一部隊の隊長というだけあり、その眼には人をも殺せるのではないかと思わせるだけの力が込められている。
ティゼルにそれだけの迫力が出せるのか、と問われれば首を横に振るしかないだろう。
避ける。
という選択肢も生まれないほどの速度。
攻撃や足の速さには自信のあったティゼルだったが、目の前に来てようやく捉えることができるほどのその攻撃に、自分の能力がまだまだであったことを恥じる。
そして――
「一瞬でもこちらを捉えていたのは見事だった」
剣を振り払う仕草を見せ、流れるように腰へ戻した。
爆発でも起きたかのような土煙の中から目を回したティゼルが出てきたのは言うまでもない。
「む、少しやりすぎてしまったか」
エイルはそう言うとティゼルを抱え、訓練所を後にした。
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