2.聖装
その光は見る者を自然と魅了する、不思議な光。
暖かな温もりを感じさせるそれに、ロイロたちは場違いな安堵感を覚えた。
ティゼルの右腕にまとわりついたそれは、やがて形を作る。
白を基調とした薄く、青みがかった篭手。鎧の一部でしかないはずの篭手に、圧倒的な力を感じるのは光のせいだろう。
不安や恐怖を振り払う光が、その腕に宿っていた。
「来やがれ、クソヤギが」
「面白い。 その力、我にぶつけてみろ!」
両者、刹那の間に距離を詰め、互いの視線を交差させる。
山羊頭の得物は大きく、小回りが効かない分潜り込んだティゼルの方が有利。
油断はしない。一撃で、確実にその首を斬り落とす。
白銀の刀身が弧を描き、山羊頭の喉元に食いかかる。されど、寸前のところで頭を後ろへとずらし、致命傷を免れる。
「図体に似合わず、身軽だな……!」
姿勢を崩したティゼルはすぐさま立て直す。
だが、その隙を見逃してくれるほど甘くはない。
鉄塊を手放し、リーチの短くなった山羊頭の拳が再びティゼルの脇腹へと直撃する。
「っ、痛ぇ……! けど!」
「――受け止めたか」
白い篭手を纏った右腕と左腕で拳を受け止め、ティゼルはその衝撃に耐えながら笑みを浮かべる。
受け止めることはできたが、右腕の支えとして使った左腕は衝撃に耐えきれず折れている。
その激痛に表情を歪ませなかったのは、ティゼルの意地か、それとも――
「首は無理なら、まずはこの腕から貰ってやるよ!」
右腕を振り上げ、山羊頭の姿勢を崩す。
無防備になった右腕を強引に斬る。先程の鉄剣とは違い、刃が肉を断つ感触がその手に伝わる。
(――斬れる!)
綺麗に斬り落とされた右腕から、鮮血が吹き出すが、山羊頭の表情は変わらない。まるで痛みなどないかのように、すぐに左手で構えて見せた。
狂人地味た笑みを貼り付けながら、すぐにティゼルはその左腕も貰い受けるために走る。
使い物にならない自身の左腕のことなど、とうに頭から抜けている。今、ティゼルを支配しているのは今まで感じたことのなかった感情だ。
「あ、あれが、ティゼルなのか……」
自分の身を顧みないティゼルの姿を見て、ロイロは言葉を失った。
最早、人の領域ではない。
脇腹へのダメージで肋骨は肺にまで至っているだろう。左腕の痛みも相まって、普通なら立ち上がることすらできないはずだ。
それがどうだ。
今のティゼルは立ち上がるどころか、先程までよりも素早い動きで敵を斬るために走っている。
「あれでは、ティゼルは……」
その後に続く言葉を、ロイロは必死に飲み込んだ。
その先を言ってしまうのは、今までティゼルを見てきた者として、何もかもを否定してしまうように思えたからだ。
「は、ははっ! 意外とタフだな」
「それは我のセリフだ。 勇者と言えど、その傷で立ち上がり、未だ攻撃を続けるとは」
「当たり前だ。 俺はお前をぶっ倒すまで止まれねぇんだよ」
そんな短いやり取りの後、再びぶつかり合う。
両の足を砕く勢いの蹴りを躱し、腸を引き摺り出す一閃を避けられ、頭を吹き飛ばす圧倒的な一撃を右手でいなす、両者譲らぬ一進一退。
先に体力が尽きた方が負ける。
そしてそれはすぐに起きた。
「……っ、くそ。 ラチが……明かねぇ……!」
「どうした。 もう終わりか」
上がった息を整える暇もない。
徐々に攻撃の手数が減り、防戦一方へと転じ始めていたティゼルは数歩後ろへと跳んだ。
山羊頭との距離は開いたが、これしきの距離ではなんの意味も持たない。しかし、そこに生まれたほんの僅かな一瞬こそが、何よりも大事であった。
「聖装――抜剣」
自然と口をついて出てきた言葉。そうすることが正しいことであると、本能的に理解しているように、無意識にそう呟いた。
淡く輝く太陽のような銀輪を纏う小さな光。
小さな剣を形作り、それはティゼルの手へと渡っていく。
「聖剣まで使えるか。 やはりオマエは惜しいが、ここで終わらせなければならない」
山羊頭は左腕で鉄塊を構え、油断なくティゼルの様子を睨み続ける。
隙は大きい。叩くのなら今であることは素人目にもわかる。それでも、攻め込めないのはその光のせいであった。
「本当に女神様に愛されてるみたいだな。 これで、思う存分、お前をぶっ倒すことができる」
その手に握られたのは白銀に輝く剣ではなく、大きな翼を彷彿とさせるティゼルの身体より長く、細い剣。
天へと突きつけるように振り上げ、その切っ先を山羊頭へと向け、振り下ろす。
「悪いけど、お前は俺に勝てねぇよ」
「女神の力、見せてみろ」
鉄塊を振り上げ、恐ろしい速度で迫る巨体を前に、ティゼルは焦ることなく剣を構える。
まるで、子どものときからずっと使っていたかのように手に馴染む。
気味悪くも、不思議な安心感のあるその剣をティゼルは真横に構えた。
「一撃で沈めてやる」
凄まじい速度とその圧倒的な質量で、ティゼルを弾き飛ばさんと巨体が迫る。
見える景色は変わらない。だと言うのに、この全身へと広がる万能感。それに飲まれることなく、ティゼルは柄を強く握ると、軽く、横に薙いだ。
「――くたばりやがれ」
それは、光の一薙。
視界が白く染り、瞳を閉じたとてその光を完全に遮ることは難しい。
反撃か、せめてもの抵抗なのか、鉄塊をティゼル目掛けて投げ飛ばすが、いとも容易くそれは塵と化した。
静かに、音もなくズレる巨大な胴体が、大地に着く。
余韻によるものだろう、未だ立ち上がったままの足も多量の血液を撒き散らしながら、崩れ落ちた。
あまりに静かな決着。
ロイロたちはティゼルの勝利に喜ぶことも忘れ、敗者である巨体と勝者であるティゼルとを静かに見ていた。
やがて、止まった時が動き出したかのようにざわめきが生まれていく。
「は……はは。 ティ、ゼルは強い……なぁ」
「父さん、もう喋るな! これ以上は、もう!」
誰よりも先に口を開いたのはティゼルの父であるライゼルだった。
意識を保っていられているのが不思議なくらいの致命傷。全身の血が抜かれたかのように真っ白なその顔と、意思のこもっていない腕を持ち上げ、ティゼルが必死になって、喋るなと言い続ける。
それでも、ライゼルの口は止められない。
「ティ、ゼルの……やりたいこと……。 一度も、聞いてやらなかった、な……」
「いいんだよ! そんなこと! お願いだから、もう喋らないでくれ!」
「ごめん、なぁ。 俺ぁ、ダメな父……親で……」
「わかってる! これからだ! これから、父さんは父さんらしく……! だから!」
「やり、たいこと……好きに……」
「喋るなよ! クソ! なんで! なんで、こんなに冷たい! なんでこんなに!」
少しだけ感じ取れていた体温も、少しずつ抜けていく。
その感覚が、握りしめた手のひらから確かに伝わってくる。
その瞳はどこを見ているのだろう。何を見ているのだろう。
いつの間にか日が登り始めた空の色。夜と朝が混ざり、溶け合ったような空。何も映さない空虚な瞳はただその先を見つめていた。
「ティ……ア、お、れは……」
「父さん! 父さん!!」
視界が紅く滲んでいく。
亀裂が走り、裂けていくような痛みを覚えながらも、ティゼルは何度も父を呼び続ける。
「もっ……と、遊ん……で……――――」
やがて、薄く開かれていたその瞳が閉じられたとき、ティゼルの手のひらから、力なく腕が抜け落ちた。
「なん、で……! まだ、謝って…………」
視界が、紅い。
喉が焼けるように痛い。
全身の感覚が抜けていく。
(まだ、ちゃんと……)
意識が、闇の底へと落ちていく。
勇者の生誕を祝うように、どこかで羽ばたいた鳥たちの音が頭に響いていた。
◆
――よくがんばりました。
そんな声が微かに聞こえた。
それが誰のものであるのかを考える前に、ティゼルの意識は覚醒へと至る。
眩しすぎる光に、目の奥が悲鳴を上げる。もう一度目を瞑り、手で目元を隠すようにして目を開く。
少しずつ光に目が慣れ、周囲の様子がわかるようになってきた。
締め切られたカーテンと、灯石に灯った光。
「――――ぁ、ここ……は」
「目が覚めたか、ティゼル」
「ロ……イロ、さん……」
棘が刺さったように痛む喉元を押さえ、半身を起こそうと力を込めるが、思うように身体が動かせない。
どういうことか、と全身を見下ろすと、一見大袈裟とも思えてしまうほど、包帯に巻かれていた。
「動くんじゃない」
「ここ、診療所……。 どう、して」
「覚えていないのか?」
首を横に小さく振る。
そうか、と呟くとロイロは読んでいた本を机に置き、眼鏡を外した。
「あの巨大な魔物を倒した後、お前は気を失った」
「気、を……」
「無理もあるまい。 あれだけの攻撃を受けながら身体を動かしたのだ。 ダロスから言わせると、生きてられるのが不思議、だそうだ」
村医者ダロスの話し方を真似るようにロイロがティゼルに聞かせる。
何とかして明るく取り繕っているようで、ティゼルが言葉にすることはなかったが、察しはついた。
父は、ライゼルは助からなかったのだろう、と。
そんなティゼルの様子に、ロイロ少しだけ肩を落とすと、ゆっくりと話を続けた。
「ライゼルを含めて、半数以上が死んだ……」
「……っ」
「じゃがな、我々は生き残れた。 お前が責任を感じるようなことじゃない。 儂らを助けた、それだけで充分じゃ……」
「けど……お、れは……! 俺は……!」
自然と漏れ出る嗚咽に、これ以上言葉を紡ぐことを止めた。
泣くことを咎める者など誰一人としていないだろう。それでも、ティゼルは隠れるようにロイロに背を向ける。
「まだ、眠っておれ。 久しぶりのご飯はしっかり休んでからの方が美味いからな」
そう言うと診療所の部屋から、ロイロが出ていくことが気配でわかった。
誰もいなくなったベッドの上で、ティゼルはその身を小さく丸めて眠りについた。
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