1.目覚め
平凡で、何も変わらない毎日。
朝、ロイロと食事を交わし、その後は森で動物たちと遊ぶ。森の奥まで探索したり、川で水遊びをしたりと様々だ。
辺境の村で、周囲には何もないような村だったが、ティゼルにとってここは何よりも居心地のいい場所であった。
「――――は」
だからこそ、今この惨状を受け入れられずにいた。
「ティゼル! 逃げるんだ!」
そう言って険しい表情でティゼルの部屋の扉を開けたロイロ。
他者よりも感覚の鋭いティゼルがこの異変に気づいていないはずもなく、村の景色を見れる窓に張り付いて、その光景を眺めていた。
夢であることを切に願う。
灰が巻き起こり、木が、家が、人が燃えていく。
耳を離れない叫び声。転がる村人の身体。大地を震わせる大きな振動。
「ティゼル!」
ロイロの、怒鳴り声にも似たその声でようやく我に返る。
すぐさまロイロと共に外へ出る。
肌を焼く風に目を瞑った。
森に囲まれた緑豊かな村の澄み渡るような空気は灰に汚され、鼻につく嫌な匂いが充満していた。
「なっ……けほっ……」
口元を覆い、周囲を見渡す。
まだこちらの方に炎は見えないが、ティゼルの正面。森に囲まれたこの村で唯一、入口とも言える方角に、夕焼けのようなモノを見た。
「ロイロさん!」
「高台へ行くぞ!」
年老いたロイロの手を引き、火の手を確認しながら走る。
燃え盛る炎の音と、崩れ落ちる家屋の音で奥の方はどうなっているのかはわからない。
何が起きているのかも理解できない。
「ティゼル! 村長! 無事でよかった!」
坂道をのぼり切り、村の診療所の前には既に避難をしにきていた村人たちが集まっていた。
その手に握られているのはクワやスコップなど、武器の代わりになりそうなもの。いつになく強ばった表情の男たちと、その後ろで怪我人の治療をしている村医者のダロス。
「な、何があったんですか! これは!」
「ティゼル、お前はこれを持っておけ」
「ロ、ロイロさん! 待ってくれ、状況が……!」
「持っておけ! この村で頼りにできるのはお前だけだ」
初めて聞くロイロの怒声に、ティゼルは口を噤んだ。
ロイロに手渡されたのは鉄製の剣。
軽い作りではあるが、この村にある数少ない防衛のための武器だ。
残りの武器は村の中でも身体の大きい男たちが持っていた。
そんな中でどうして、などと聞かなくとも、少しずつ理解し始めていた。
「大丈夫だ。 お前は強い」
「……っ」
剣を握る手に力が篭もる。
歯を食いしばり、火柱の上がる方へと顔を向けた。
(何かが、いる)
逃げ惑う村人たちの気配の中、一つだけ異様なモノを微かに感じ取っていた。
それが今になって確信へと変わる。
(……っ)
つまり、高台へとたどり着けなかった村人たちはもう――
「意外と残っていたか」
耳障りな低い声。
神経を逆撫でされているかのような苛立ちを覚えるその声の主が、坂道の奥から少しずつその身体をあらわにしていく。
ティゼルよりも遥かに大きな巨体。上半身は膨れ上がった筋肉を見せつけていた。大人の身体よりも太い腕で、そのシルエットを歪ませていた鉄の塊を軽々と持ち上げている。
そして、何よりも目を引き、村人たちの足を後ろへと下がらせたのは――
「ま、魔物……!?」
「イヤァァァァ!」
首から上にだけ生えた白い体毛。髪や髭などではないものであることくらい、一目見ればわかった。
毒々しい渦を巻いた黒い瞳と、獣のように獰猛な牙を見せつける口元。
頭部からは山羊のような角を生やした巨大な化け物。
「オマエは――勇者か。 一目見てわかるぞ、オマエは面白い」
目を細め、獣の口を大きく開く。
目で、耳で、全身で感じ取る目の前の邪悪に、ティゼルの足はまるで言うことを聞かない。石になったような錯覚すら覚える自身の身体へと、最大限の警告を発する。
刹那、ティゼルの頭部へと圧倒的な死の気配を感じ取る。
顔を上げることも間に合わない。必殺の一撃。
「避けろ! ティゼ――」
「雑魚は失せろ」
ティゼルへと向けられたはずの攻撃はその軌道を逸れ、横にいた村人へと直撃した。
何が起きたのかも、死んだことすらも理解させぬ一撃。血飛沫が足に付着して、ようやくティゼルは後ろへと跳んだ。
膝をつき、落ち着くようにと呼吸を整える。大きく動いたわけでもないのに乱れた呼吸に戸惑いながらも、今しがた起きた凶行に、ふつふつと怒りを覚える。唾を飲み込み、震える足で立ち上がる。
「……お前、許さねぇぞ」
「強者の立ち会いに弱者は不要。 割り込むのならば――潰すだけだ」
剣を構える。
まだティゼルが父ライゼルと共に暮らしていた頃に何度か握らされた木剣とは違う、軽いはずなのに重い。これは、命を奪うための重さだ。
しかし、今のティゼルにそんなものを気にしていられる余裕はなかった。
「う、うおおお!」
声を荒らげたのは少しでも自身の気力を奮わせるため。眼前の怪物を標的と見定め、駆ける。
自身の体格よりも遥かに巨大な身体。その手に握られた鉄塊ですら、ティゼルよりも大きなものだ。
そんな巨大な得物を振り上げ、山羊の頭をした怪物は咆哮した。
大地だけではなく、脳をも揺らす大気の振動に思わず耳を塞ぐ。そして、すぐさま危険を悟り身体を動かす。
丁度、ティゼルがいた場所から轟音が鳴り響く。振り返らずともわかる、あの鉄塊が大地を砕いた音だ。
しかし、その攻撃によって生じた隙をティゼルは逃さない。
すぐに山羊頭の身体の下へと潜り込み、その首を切り落とすために跳躍する。
渦を巻いた瞳がこちらを捉えるが既に遅い。ティゼルの剣はその喉元に――
「――ッ!」
「オマエは強いが、武器が弱かったな」
硬質な金属音を響かせ、ティゼルの剣が砕かれる。
鉄よりも硬い皮膚には傷一つ付いておらず、山羊頭は再度笑うと鉄塊から手を離し、ティゼルの空いた横腹に拳を叩き込んだ。
「がっ……! っ、ぁ、ぁぁああああ!」
石ころのようにティゼルの身体が宙を舞い、転がる。
すぐさま駆け寄ろうとした村人たちは山羊頭の鋭い視線に射抜かれ、足を止める。
土煙の中、腹部を押さえ、悶え苦しむティゼルの影が見えた。
大地を赤く濡らす液体が、自分の口から吐かれたものだと理解するのが難しいほど、ティゼルの思考は痛みに飲まれる。
「っ、ぁぁあ! がぁぁぁあああ!」
「惜しいな。 武器さえ対等であれば、好敵手足り得た存在だ」
「だまっ……れっ! がっ……ぁ、お前、は、俺が……っ!」
「早々に勇者を退場させるのは面白くはないが、仕方がない」
振り上げられる鉄塊に為す術なく、地を這うティゼル。
それをただ見ることしかできない村人たち。
瞬きをすれば、次の瞬間にはティゼルは跡形もなく潰れてしまうのだろう。
声を出すことも、動くことすら許されない、引き伸ばされたかのようにゆっくりと流れる時の中、影が一つ動いたのをロイロは瞳の端で捉えていた。
「潰れろ」
「く、そ……が!」
鉄塊がティゼルを押し潰す直前、その腕がピタリと止まる。
「……なんだ、オマエ。 死にたいのか」
「やめてくれないか。 ティゼルは……こんなどうしようも無い俺の、大切な家族なんだ」
少しやつれた、無精髭の男。その震える手には白い剣が握られている。
だらしなく伸びきった白髪混じりの茶色の髪をかきあげ、その下の青い瞳を細めた。
「なん、で……」
「俺は、どうしようもないくらいにクソな父親だ。 理想を押し付け、夢を押し付け、何よりも大切な子どもだったはずなのに、ティゼルの未来を潰そうとした」
「父親……つまり、オマエは勇者の――」
「ああそうだ、聞け。 魔女」
その言葉に山羊頭の怪物は顔を向けた。
「俺は勇者ユーゼルの息子にして、ティゼルの父――ライゼルだ!」
いつか見たどうしようもない父親の姿。
どれだけの間、顔を合わせていなかったのだろう。思えば、ティゼルの方から父の話を聞いた事も、しっかりと話し合った事もなかった。
だから、これから先は、父の顔を見て、しっかりと向き合って――
「そうか。 弱者よ、一撃で沈めてやろう」
腹の底に響き渡るその声に、決して油断はなく、目の前の標的をライゼルへと変え、その鉄塊を振るう。
たどたどしい足取りで、辛うじてその大振りな一撃を避けるライゼルだが、生じた風圧には対応できず、転んでしまう。
「終わりだ」
その太い腕で山羊頭は鉄塊を振り抜いた。
軽々と、何かが飛んだ。
その『何か』の存在を捉えると、音も、景色も、自分の痛みすら忘れて、ティゼルはただ叫んだ。
喉が張り裂けてしまうほど叫び、痛みなど構わず駆け寄った先で、虚ろな瞳をしたライゼルの手を握った。
「心意気は認める。 が、あまりにも弱すぎる。 これが勇者の息子か?」
血に塗れた身体を抱き上げ、その凄惨な有り様に言葉を失った。
ライゼルの頬に垂れた雫が、自身の涙であるに戸惑った。
「何、してんだよ!」
涙で滲んだ視界を拭い、必死になって声をかけ続ける。
握った手に力を込めてもそれが返ってくることはない。力なく、垂れていきそうなその手を握りしめ、ティゼルは何度も声を――
「少しは相手になるかと思ったが、この程度。 やはり勇者、オマエと殺り合うのが一番だ」
「黙れよ。 言われなくたってやってやる」
炎のように揺らめく金色の瞳。風に吹かれ、その特徴的な蒼い髪が逆立つ。
その表情は、誰も見たことがないティゼルの本気の怒り。
ライゼルの手に握られていた剣の柄を持つ。
「ティ……ゼル……お前、は……」
「喋らなくていい! 全部終わったあと、ゆっくり話そう……」
意識を取り戻したのか、それとも単なる女神の気まぐれか。
朧気に言葉を発したライゼルの身体をロイロの元へ託すと、ティゼルは先までの痛みも恐怖も忘れ、山羊頭の前に立った。
「――不思議な話だが、お前と戦ってようやくわかった」
口元の血を拭い、深く息を吸い込む。
感覚がより鋭くなっていく。村人たちの息遣いや、炎の音、森の中ざわめく動物たちの足音。
「俺は確かに女神様に愛されているらしい」
剣を持ち、右腕を上げる。
ティゼルの表情は未だ変わらず、目の前の山羊頭への怒りを浮かべたまま。
「――聖装顕現」
その言葉を口にした途端、ティゼルの周囲を白く輝く光の粒がまとわりつく。
それはティゼルを撫でるように、愛おしむように顔の周りを飛んだあと、剣を握る右腕に集まる。
やがてそれは光の中で形を作っていく。
「かかってこいよ、ぶっ潰してやる」
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