マスターのコーヒーは超まずい

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マスターのコーヒーは超まずい

 アンティークな雑貨で飾られ、静寂に包まれた隠れ家的喫茶店。そこの窓際の席で斜陽に照らされて一人コーヒーを飲む。誰もが一度は憧れるシチュエーション。しかし、完璧に見えるその光景には一つの欠落があった。


「まっず……」


 肝心のコーヒーが超不味いのだ。正真正銘比喩でも何でもなくこれは泥水だ。ここまで不味くコーヒー淹れられるのはもはや才能ではないか。


 スーツを着た女性客は顔を顰めて深くため息をつき、カップをテーブルの上に置いた。


 彼女の名前は深山みやま梨華りっか。近寄り難い冷淡な鋭い三白眼。長く続けたデスクワークのせいで猫背ぎみな姿勢で座り、長い黒髪は最低限の手入れしかされておらず光沢を失っている。日々の仕事でストレスを抱える社会人。それが深山梨華の現在だ。


 仕事の昼休憩でこの喫茶店に足を運んだものの、案の定出てきたのはこの超不味いコーヒーだけだった。


「味を改善しようとは思わないんですか」

「それだと客が増えてしまうだろう?」


 深山の棘のある物言いはとても喫茶店のマスターとは思えない理由で受け流された。


 カウンターに体重をかけて唯一の客である深山を見つめている彼女は、この喫茶店のマスターの楠木くすのき悠里ゆうり。なぜが常に白衣を着用している茶髪ボブカットの謎の多い人物だ。


 吸い込まれてしまいそうなほど黒い瞳は彼女の興味の対象を逃さない。外回りも多いため健康的な肌色の深山とは対照的に、彼女の身体は触れたら折れてしまいそうなほど細く、放っておいたら溶けてしまいそうなほど白かった。


「客が増えるって、それに何の問題があるんですか」

「私がこの喫茶店をやってるのは道楽だからさ」

「お金に困ったりはしないんですか」

「株で一生分稼いだよ。私は既に隠居人なのさ」


 そうさらりと言ってのけた彼女に、深山は少しムッとした。


 生きるための金を稼ぐために今日も懸命に働く彼女にとって、楠木の態度はあまり気分がいいものではなかった。


「あぁ怒らないでくれよ。私は別に自慢をしているわけでも、働いてるキミを馬鹿にしてるわけでもないんだ」

「それは分かってます。何回か話してあなたの性格はそれなりに理解しましたから」


 深山がこの喫茶店を見つけたのは一ヶ月前。休みの日にたまには体を動かそうと散歩をしていた時だった。社会の荒波に揉まれて疲れていた彼女は、癒しを求めてここの扉を開いた。


 最初は内装の凝りようと落ち着いた雰囲気で当たりの店を見つけたかと思ったが、いざ注文して出てきた物は泥水コーヒーと暇を持て余して絡んでくるマスターだった。


「でもあなたの行動に理解はできません。喫茶店を開くだけ開いてあとは何もしない。それは何が楽しいんですか」

「違うよ。私が楽しんでいるのはここに来る客との対話さ」


 カップを回して温くなったコーヒーを弄ぶ彼女の問いに、楠木は首を横に振って勘違いを訂正した。


 カウンターから体を離し、深山が陣取るテーブル席にゆっくりと向かいながら語り始めた。


「コーヒーの味も、店の繁盛も私にとってはどうでもいい事なのさ。ただ、人と話すという事において隠れ家的喫茶店がちょうど良かったというだけで」


 楠木は自然な流れで深山の向かい側に座り、両手を組んで肘をつき、ジッと彼女の目を見つめた。たったそれだけの仕草があまりに妖艶で、深山は目を逸らしてしまった。


「時に深山くん。面白い人間とは何か、わかるかい?」

「芸人とかですか」

「もー、すぐそうやって適当言う」


 目も合わせずぶっきらぼうに返答され、楠木は頬を膨らませて不貞腐れた。


「私はと思わせる人だと思う」

「はぁ」

「面白いと言っても様々な種類がある。人を笑わせて面白い、興味深い学説に惹かれて面白い、熱いスポーツを見て面白い。でもその中で共通しているのは知りたいという欲求だ。

 面白いと思ったスポーツについて調べるし、芸人のプロフィールとかテレビには出てるかとかを調べるし、学説なんかは語るまでもない」


 深山は楽しそうに語る楠木をボーッと眺めながら不味いコーヒーをなんとか完飲しようとしていた。残念ながら楠木の語りはあまり深山の興味を引くものではなかった。深山がさっさと不味いコーヒーを完飲して仕事に戻ろうと思った時だった。


「そこでふと思ったのさ。恋もまた同じではないかと」

「うっく……」


 コーヒーの不味さではなく、楠木からまさか恋の話題が出るという意外さからえづいてしまった。


 上品でクールに育てられた彼女はなんとか吹き出してしまうことを防ぎ、恨めしそうに楠木を睨みつけた。この人は何が面白いのだろうか。深山は楠木の不可解な言動に眉をひそめた。


「おっ、やっと興味持ってくれた。恋に食いつくなんて、やっぱりキミも女の子だねぇ」


 どう見ても不愉快そうな自分を見て嬉しそうに笑う楠木に、深山は何だこの人と勘ぐる。さっきからこの人について色々考えているが、振り回されるだけで正しいと思える解答は完成しなかった。


「それで、どういうことなんですか」


 深山は口に残っているコーヒーを飲み込んで楠木の言葉の意味を聞いた。彼女はようやく深山が興味を持ってくれたと喜び、前より増して楽しそうに話し始めた。


「恋愛漫画とかドラマでよくあるだろう?惚れた対象のことを知るために尾行したり、周りの人間に聞き込みをしたりさ。それは間違いなく知りたいという欲求から来るものだ」


「まぁ……そうですね。でもそれがあなたの話と何と関係があるんですか。私にはあなたが恋愛に興味があるようにはとても見えません」


「そこだよ深山くん!」


 深山の抱いた疑問に、楠木は勢いよく立ち上がって露骨な反応を見せた。突然のことで深山の手が揺れてコーヒーがくるりと波打つ。


 脈絡があるのかないのかわからないことを一方的に話し、自分の世界に引き込もうとするその姿を見て、深山は改めてこのマスターはマッドサイエンティストタイプの人間だと思った。


「君はどっちなんだい」

「……はい?」


 深山はその質問の意味が理解できなかった。そんなことお構いなしに、楠木はどうなんだいどうなんだいと目を輝かせている。


「……どっちって、何のことですか」

「君が私を面白い人間と見ているのか、恋慕の対象として見ているのかだよ」


 楠木は小馬鹿にするように「話を聞いていなかったのかい?」と言い放ったが、深山はそれどころではなかった。


 突然面と向かって私はあなたが好きなんですかと聞かれて焦るのは当然だが、深山は何か別のところに過剰に反応しているように見えた。けれどその「何か」の正体は掴めない。思考回路は謎の妨害電波に狂わされてショート寸前だ。


「知らないですよそんな事。そもそも私はあなたなんかに興味ありません」

「それは苦しい言い訳だね」


 謎の焦りを覚えた深山の早口での返答を楠木がバッサリと切り捨てる。席から立ち上がり、慌てる彼女を無視して隣に座った。そして遠慮なく顔を近づけて耳元で囁いた。


「10回」

「えっ」

「深山くんが私の店にきた回数だ」

「なんで数えてるんですか。気色悪い」

「仕方ないだろ、あまりにもキミの行動が不思議だったんだから」


 喫茶店に何度も訪れる事がそんなに不自然だろうか。そう考えて首を傾げる深山に、楠木はドヤ顔でこう言い放った。


「私の店にはこれまで50人ほどの客が来たけど、リピーターなんてキミ以外にいないんだよ」


 耳元で囁かれた事実が、深山の行動の意味を浮き彫りにする。焦りを隠せない深山を見て、楠木はさらに畳み掛けた。


「コーヒーは不味い。メニューも全然充実していない。そんな喫茶店に何故たった一ヶ月の間に10回も来ているんだい?

 私は考え、そして結論を出した。もしやキミの興味は喫茶店ではなく私にあるのではないかと!」


 楠木はドラマの名探偵の如く堂々とした物言いで深山に自分の推理を突きつけた。


 深山は俯き、楠木からは表情を隠す。コーヒーに映る彼女の顔からは色を窺うことはできなかった。


「……そんなわけないです。私はここが静かな場所だから来てるだけです」


 突き刺さるように冷たかった彼女の口調は見る影もなく、今の彼女の口調は幼い子どもが大人に言い訳をする時のように弱々しかった。しかし、楠木の推理の否定だという事には変わりない。


「キミは強情だねぇ」


 楠木は絶対に正解の推理を頑なに受け入れようとしない深山に頭を抱えると同時に、弱ってしまった彼女を見て、少し追い詰めすぎたかと反省した。


 深山はもう話そうとしないし、コーヒーにも一切手をつけない。しかしこのまま帰してしまうというのは、彼女の好奇心が決して許さなかった。


 その時、楠木は深山が自分をどう思っているかを知ることができる妙案を思いついた。


「すこしこっちを向いてくれないかい」

「……今度はなんですか」


 弱って頭が回っていないのか、深山は言われるがまま顔を上げた。その瞬間だった。


 楠木はおもむろに深山の唇を奪った。


 あまりにも突然だった。けれども深山は抵抗しない。


 柔らかい唇が触れ合い、身体に熱が伝う。その熱に浮かされるまま深山から力が抜けていく。


 それを察知した楠木は無防備な手の指を絡め取り、激しく高鳴るお互いの命の鼓動が聞こえるほど身体を密着させた。


 鳥のさえずりさえ聞こえない真昼の静寂の中、激しく高まる熱で目的を忘れてしまった楠木は、無防備に晒された甘い果実を欲望のまま貪った。


 そして高まり続けた熱は臨界点を突破し、同時に二人の唇は名残惜しそうに離れた。


 それは悠久の時とさえ思えた。しかし、秒針は時計に刻まれた数字二つ分しか動いていなかった。


「……かわいい」


 耳まで唐紅に染まり、突然の楠木の狼藉に対する驚きや、ファーストキスを奪われた怒りや、情熱的な接吻での快楽やらで涙目になってぐちゃぐちゃになった深山の顔を、楠木は人生で一度も使ったことなかった言葉で賞賛した。


「いきなり何するんですか!」


 正気を取り戻した深山は楠木を突き放し、鞄を掴んで逃げるように店を出た。


「あっ、お金」

「つけといてください!」


 まだ体に残る熱で意識がはっきりしない楠木のぼやきを、深山は叫ぶように返事をしてから乱暴に扉を閉めた。また静寂が帰ってくる。しかしその空間に熱は無く、寂寞が漂っていた。


「……また来てくれるんだ」


 一人残された楠木は、深山の返答で無性に心が躍っていた。自分の推理を確かめる方法として彼女はキスを選んだ。


 そして深山の無抵抗と最後の言葉が答えを教えてくれた。それに加え、楠木自身の心の正体さえ露わにした。


「楽しみだな……」


 彼女の胸中に渦巻く、心地よい熱を大切に抱えて柔らかい笑みを浮かべた。


 彼女の他人への興味は自分への無関心の裏返し。自分が何を思っているかなんてどうでもよかった。しかし、いつの間にか胸に抱いていたこの恋心がこんなにも心地よいものなら、自分を知るというのも悪くないと思えた。


 唇をそっと撫でて立ち上がり、カウンターに並ぶコーヒー豆を眺める。


 深山が来た時だけでもおいしいコーヒーを提供しよう。惚れた相手に良いところを見せたいという、彼女にしてはあまりにも普通すぎる欲求からスマホでコーヒーについて調べ始めた。


 二人のための花の園で、テーブルに残されたコーヒーからは薄い湯気が立ち上っていた。

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