第6話 悪魔
穏やかな風がさざなみをたてて通り過ぎて行く。
夕刻の海辺にすえた机の上には書き上げたばかりの詩。
いもしない人、起こりもしない出来事、彼は朗々と歌い続ける。
歌い上げた世界の荒唐無稽さよ。しかし、それは彼が歌うことで真実味を帯び、あたかも実在のもののように聞くものを魅了する。
その時、風がとまった。
風だけではない、波もなにもかも動くことをやめている。
「歌え! 」
どこからともなく雷鳴のような叱責がふってきた。
「歌え! 我らの歌を」
そこにいない同胞たちの合唱が一斉に彼にふりかかってきた。そして天に文字通り亀裂が走った。
「時はきた。我らのすべてを刻み込んでお前は行くのだ」
彼は驚きおののいた。いつか世界の終わる時の予言はなされていたが、その時が彼の生きているときにやってくるとは思っていなかったし、もしあってもその時は自分も合唱の一員になってともに永遠に赴くのだと思っていたから。
流れ込む情報の奔流に彼は叫んだ。嫌だ、やめてくれ。俺も安寧につれていってくれ、と。彼は自分の中に知らない感情が沸き起こるのを感じて恐怖した。自分が自分でなくなる。だが、新しい自分は案外平気でいるんだろうなという予感もあった。
ハイリは目を丸くして世界球の消えた後にあらわれた男の姿を見ていた。
烏帽子と緩やかな衣装は先ほど世界球の中で見た通り。褐色の肌はなめしたようにつややかで、顔立ちはハイリの目には整っているように見えたが目の虹彩が金色で人間離れしてみえた。耳はわずかにとがっていてどこかエルフを思わせる。
これは亜人だろうか。彼女が思ったのはまずそれだった。少なくとも人間ではない。しかし、異常に高い魔力も感じる。これほどのものを持つのはよほど才能にあふれた人間か、年経たエルフくらいだ。
「何がおきたのです。この者は誰です」
「悪魔です」
答えたのはガリエンだった。
ハイリは悪魔という存在について聞いたことはあった。魔法的に作られた下僕で、作り方によるが特殊な力を持ち、簡単に殺すことはできない。ただし、作ることのできる魔法使いは限られるし、主が死ねば消えるという弱点を持つ。
「悪魔は世界球を使って作るの? 」
「それは方法の一つですね」
「彼は味方なのですか」
「お嬢様、こやつの主はあなたです」
「どういうこと? わたくし、悪魔のつくり方など知りませんよ」
「知っていたのは亡き奥様ですな。こやつをここまで育てたのはお嬢様の余剰魔力です」
「わたくしの? もしかして母上の日記にあった子供のころの発熱? 」
ちょうどそのくらいのタイミングで悪魔は起き上がった。一同を見回し、ハイリに気付くと見たことのない仕草で、しかし優雅にひざまずいた。
「あんたがマスターか」
すんだ声、歌声のような抑揚のある声が喉から放たれた。だが、主と仰ぐにしてはぞんざいな口調だ。
「そのようです。おまえの名前は? 」
「幻夢斎とよんでくれ。最初にはっきりさせておきたいことはあるが、後にしたほうがいいな」
悪魔は領主と二人のエルフ、それに倒れた家妖精をじろりとねめまわした。
「そうだ、そなたの主、ハイリを連れて逃げてくれ。必要な知識はあるはずだ」
「おうよ。任せてくれ。さあ、行こうぜ姫さん」
ハイリはあわてた。悪魔といえば強大な力の持ち主だ。それなら父の決起の手伝いをさせたい。彼女はそう命じようとした。
「残念だが、それは聞けねえ。あんたは俺の主だが、俺に命令できるのはこれまでならあんたの母親だけだ。俺はあんたを守るよう言われている。それ以外はどうお願いされようと関心はないね。いっとくが自分を餌になんて考えるなよ」
幻夢斎は人ならぬ目でぎろりとハイリを睨んだ。
「力づくで連れ去るからな」
「しかし、おまえがいればわたくしは守られるのでしょう? 」
「残念だが、俺もまだ自分にできることをまだ把握しきれてない。たとえできていても、絶対ということはない」
「ハイリ。逃げるんだ」
父親の言葉がふってきた。ハイリは逆らった。
「ここで父上を見捨てるなどできるものではない」
「最悪でも私が殺されることはない。わしが生きていれば代行権限をもつあれのほうに亜人たちはしたがう。意識を奪われ、眠りにつかされることになろう。正規の後継者であるそなたが生きている間は最悪でもそこまでだ」
ようやくハイリは父の意図を理解した。だが、ことが破れればどうなるか。
彼女はサリエンとガリエンを見た。この二人は殺されるだろう。亜人は奉仕種族だがその命をかろんじてはいけないと彼女はしつけられていた。
「時はくる。早き遅きの違いのみ、と詩にあります」
若いエルフは微笑んだ。その詩は人生についていくつかの意味を重ねた古い詩だった。ハイリも教養として知っている。
「行け、悪魔よ」
「ご武運を」
父の言葉に悪魔が動いた。驚くほどの力で彼女は体をさらわれる。この男が乱暴する気なら彼女はほとんど抵抗できないだろう。
だが、荒っぽい運び方なのに痛くはなく、ぶつけないよう気配りさえされている。ただ、男性のたくましい腕が腹にまきつけられているのを感じて恥辱のようなものを覚えただけ。
通路に入ると悪魔の前に彼女はおろされた。
「言う通りに歩いてくれ。姫さん」
逃亡を警戒してのことかと彼女はあきらめのため息をついた。ことこうなれば言われる通りにするしかない。
「このまままっすぐ森にむかうのか? 」
「そのつもりだが」
「二人ほど、側近の亜人を回収したい。どちらもニシトク家の亜人ではないから信用できる。わたくしにはおまえ以外も必要だ」
「ふん」
面白くなさそうな反応だったが、悪魔は了承した。
「ならば一度姫さんの部屋に戻ろう。おっと、その前に俺の外見が自分でも引くくらいなのでちょっと偽装するぜ」
驚くなよ、というと彼は瞳の色を黒に、肌の色の褐色を薄めた。真っ白はエルフのようなので避けたらしい。
「おまえは世界球の中から出てきたのだろう」
「そうですな。姫さんに割られるまではのんびり歌詠みしてくらしておりました」
「なぜこの通路のことなど知っておるのだ? 」
「我らは個々に自分を宇宙になぞらえ、詩にします。その一人がこちらのことを詠んでおりましてな」
「なんぞその入れ子は」
「不思議なことですがね最古の詩人のひとりの作ゆえ、始まりをつかさどった姫さんの母君のうつしであったのかも知れませんな」
そんなことがあるのか。ハイリは不思議に思ったが世界球の専門家でもないし、今は考えても無駄と一度忘れることにした。
このあと、トクとガイエンを説得するのにひと悶着してから、彼女たちは森にむかって隠し通路を進むことになった。
「この通路の存在は隠しておきましょう」
そういって、幻夢斎は息を吸い込み、耳を思わずふさぐほどの声で叫んだ。
軟禁された館の壁に、大穴があいた。とんでもない衝撃波だがそこに魔力の働きを感じたガイエンとハイリはこれが独特の魔法の一つなのだと理解した。
そして、これほどの威力の魔法はそうそう打ち出せるものではない。半信半疑だった二人の亜人は彼が悪魔だと信じることにした。
パタン、と誰もいなくなった部屋で隠し通路が閉じた。
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